デヴィッド・ボウイはいかにして“ジギー・スターダスト”になったのか 『世界を売った男』50周年記念作品から活動の軌跡を辿る
グラム・ロックへつながるマーク・ボランとの出会い
続くCD2では、まず『THE LOOKING GLASS MURDERS AKA PIERROT IN TURQUOISE / ザ・ルッキング・グラス・マーダーズ aka ピエロ・イン・ターコイズ』という、1970年7月にリンゼイ・ケンプと共に作ったTV映画のための曲群が冒頭を飾る。M1「When I Live My Dream / 僕の夢がかなう時」、M2「Columbine / コロンビーナ」、M3「Harlequin (aka The Mirror) / ハーレクイン(aka ザ・ミラー)」、M4「Threepenny Pierrot / 三文ピエロ」、M5「When I Live My Dream (Reprise) / 僕の夢がかなう時(リプリーズ)」の5曲。サウンドトラックらしい小品集となっている。オルガン弾き語りのM1、5といい、愛らしいギター弾き語りのM2、M3といい、コミカルなピアノ弾き語りで「ロンドン・バイ・タ・タ」のメロディを転用したM4といい、ボウイの初期のメロディの良さを再認識させられる。改めてこの時点のボウイはフォーク歌手だ。
続くCD2のM6〜10は、この混沌とした時期に発せられたシングル盤を届ける『SINGLES / シングルズ』のコーナー。ここで、ボウイと友人達の生活に触れなければならない。1969年の後半、ボウイと妻になるアンジーはサウスエンド・ロードに立つヴィクトリア調様式の大邸宅ハドン・ホールの中のだだっ広いフラットに越し、トニー・ヴィスコンティ夫妻とシェアを開始していた。年代物の美しい建物は7つのフラットを持つ巨大なもので、地下室にはリハーサルルームを持つことが許された。ちなみに、当時お金のなかった彼らがこのような家に住めたのは、この家には幽霊が出たからだという。トニーがボウイ・バンドのベーシストになった成り行きも、この共同生活が基だ(※3)。
さらにCD1の70年2月5日BBCライブ録音の数日後には、ミック・ロンソンがこのフラットに越してきた。2月22日にはラウンド・フィッシュという場所で、CD1と同じメンバーで、Country Joe and the Fishの前座を務めた。そこでボウイの妻となるアンジーと、裁縫の得意なトニーのガールフレンド、リズ中心にグラムロック時代の先駆けとなる斬新な衣装のデザインが行われた。トニーがコミック『スーパーマン』から抜け出てきたヒーローのような格好をしていて「ハイプマン」と呼ばれたため、バンド名は「ハイプ」となった。ミック・ロンソンは金のラメ・スーツを着たという。このライブにマーク・ボランが(隠れて)見に来たことが後に写真で確認されたそうだ。このライブの衣装こそが、後にT. Rexを中心にロンドンを風靡するグラム・ファッションの起点となったというのはトニーによる証言。さらなる検証を期待したい(※4)。
そして3月6日に発売された「The Prettiest Star」のオルタナティヴ・ミックスがM6で、それと同時に録音されたのがM7「London Bye, Ta-Ta / ロンドン・バイ・タ・タ」である。この2曲は、70年1月に録音されていたもの。メンバーはなんとリードギターにT. Rexのマーク・ボランが参加。発表されたボウイの録音物ではこの2曲だけがボラン参加となっている。そのギターの音色はまさしく「あの音」の艶や愛らしさを再認識させられる。
トニー・ヴィスコンティは自伝で「『プリティエスト・スター』はメディアではそれなりに好評だったが、期待外れな結果に終わった。(自分の関わらなかった)『スペイス・オディティ』が好評だっただけに二重のショックだった」と述べている(※5)。当たり前ではないだろうか。思うに「スペイス・オディティ」の重要性を見抜けなかったトニーは、ファーストの時点ではプロデューサーとして役不足だったのだ。ボウイは初期を、ミック・ロンソンの登場によって救われたのだ。
トニーがT. Rexに忙殺されるようになったため『世界を売った男』の後ブレイクに至る『ハンキー・ドリー』からの4作を、ボウイはエンジニアのケン・スコット、ミック・ロンソンと共にプロデュースする。つまり、ボウイの最初の大成功は、自身とミック・ロンソンのタッグによって成し遂げられた。しかしミックとのバンド「スパイダース・フロム・マース」は、4作の最後『ピンナップス』で解散してしまう。ボウイが一人で創らなければならなくなった次作の『ダイヤモンドの犬』では、ミックスに煮詰まり、トニー・ヴィスコンティの元に駆け込み、完成と成功を見る。つまり成功作で、ミック・ロンソンとトニーは入れ子になっているのだ。トニーとミックが唯一ジョイントしたボウイのアルバムが『世界を売った男』だった。
「プリティエスト・スター」の発売後、4月半ばにシングルとなったM9「Memory Of A Free Festival (Single Version Part 1) / フリー・フェスティバルの思い出(パート1)」とM10「Memory Of A Free Festival (Single Version Part 2) / フリー・フェスティバルの思い出(パート2)」の録音が行われた。ギターにミック・ロンソン、ドラムにウッディ・ウッドマンジー、キーボードにラルフ・メイス、そして当時英国内に2台しかなかったというムーグを借り、そのプログラミングのために、Pink Floyd『狂気』やSex Pistolsのプロデューサーとして後に超有名になるクリス・トーマスを起用。『スペイス・オディティ』の最後を飾り、CD1のライブでも最後に演奏していたこの曲は素晴らしい曲だ。しかし勝負でもあっただろうこの時期に、今さらの再録音をするのはなぜ? と叫びたくなる。とはいえ、ミックの強力なギター、そしてクリス・トーマスが作ったシンセの音色により、イメージを一新する壮大な出来となった。ボウイにとっては忘れられない夏を描いたこの曲、とにかく完璧な姿を見たかったのだろう。そのボウイの気持ちを汲み、心して聴きたいバージョンだ。
ところで、ミック・ロンソンはドラムのジョン・ケンブリッジに紹介されたにも関わらず、加入後にすぐ、Junior's Eyesのジョンの後任ドラマーであったウッディ・ウッドマンジーを推薦。ウッディも例のフラットに移り住んできて、この録音に参加したということだ(※6)。ミックとウッディは後のボウイのバンド「スパイダース・フロム・マース」となる。