SUPER★DRAGON、『NEO CYBER CITY』にみなぎる“音楽の力” グループの魅力もネクストフェーズへ

 新型コロナウイルスのパンデミックにより2020年のツアーを断念。ライブを配信に切り替え、さまざまな趣向を凝らしたパフォーマンスを披露してきたSUPER★DRAGONが、495日ぶりに観客をフロアに迎えワンマンライブ『NEO CYBER CITY -ネオサイバーシティ-』を開催した。そのタイトルから、彼らのサウンドとパフォーマンスに近未来的な映像が融合したステージを想い描きながら会場に足を運んだのだが、期待値を大きく上回ったと言うべきか、予想のはるか向こう側と言うべきか、そこにはもはやひとつの事件と言っていいレベルの結末が待っていた。

 SUPER★DRAGONは、90年代~00年代のオルタナティブロック、ミクスチャーロックやエモの隆盛を下敷きにしたロックなトラックに発し、ハウス/EDMやヒップホップ、ベースミュージックなど、その音楽性を拡張しながらダンスとボーカルとラップのスキルを磨き上げてきた。そしてこの日は、結成から5年以上にわたって積み重ねてきたことが結実し、今だからこそ実現できたであろうコンセプチュアルなSFスタイルのステージを展開。ボーカルもラップもダンスもできる田中洸希が体調不良のため準備ができず、物語中には登場するもステージには参加できなかったことはかなりの痛手だったと考えられるが、残された8人はこの難局も見事に乗り越えた。

 舞台は未来。自分たちが何者かもわからぬまま“シェルター”に閉じ込められたメンバー9人が、抑圧された日々に耐え切れず“外の世界”に飛び出そうとする。なぜ自分たちはここにいるのか。外の世界には何が待っているのか。不安とともに大きな希望と勇気を持って一念発起。しかしそこで判明した事実はさらなる絶望だった。

 彼らは優秀なクローンを作り上げる過程でアップデートに失敗し廃棄処分になった不用品。すなわち外の世界には自分を踏み台に完成した自分がいる。そのため、記憶を改ざんされシェルターが生きる場所だと思い込まされていたのだ。ゆえに彼らは、“脱出”という意志を持った時点で危険分子とみなされ、外に出た瞬間この世から完全に抹殺される。何事にも気づかぬままシェルターにいたほうがまだましだったというわけだ。

 では、そもそもクローンが製造された目的とは何なのか。答えは人間の欲望を満たす売りものにするため。「みなさまもぜひクローンのご購入を検討してみてはいかがでしょうか」、ラストに流れるクローンのPR映像が突きつけてきたディストピアに戦慄が走った。しかし、筆者が恐怖や絶望感とともに帰路についたのかというと、そうではない。

 ある者が欲望のためにある者の想像力や個性を奪い現状が正しいことだと信じ込ませる。それは決して物語中の陰謀だけに収まることではない。人類の歴史レベルでも、我々が属するコミュニティレベルでも、残念ながら頻繁に起こっていることだ。表向きは平和で自由な社会においても、ここに登場するクローンのような気持ちになったことがある観客は少なくないだろう。筆者もその一人だ。逆に自分自身が無意識的にでもクローンを買う人間側に立っていたことはないだろうかとも考えた。現在本サイトで連載中のメンバー・古川毅による『古川毅のカタリタガリ』で、彼は魅力的な歌詞について、「僕はそれに触れたことが気づきや学びのきっかけになるようなものが好きです。誰かの人生に新しい考え方を与えたり、視点を変えたり、人や社会がより良くなっていくうえでの土台になるような言葉ですね」と語っていた。これは歌詞、ひいてはポップミュージックというレンジにも当てはまることで、そんな“今のSUPER★DRAGON”のアティチュードを体現していたのだ。

 これは舞台劇でもミュージカルでもない。ナビゲーター役として合間に映像やメンバーの台詞が散りばめられてはいるものの、あくまでもそこに観客がいて初めて完成するライブ。選択肢としてはファンとの間にできた495日の空白を埋めるべく、ひらすら祝祭モードを煽る方法もあっただろう。しかし彼らはたとえそれがネガティブであっても“今言いたいことを言う”選択を取った。ファンのことを信じているからこそのエッジの効いた演出と、生身の肉体から放たれるエネルギーが渾然一体となったスリリングなメッセージ。そしてその場にいる多くの人々が、ただ気持ちを開放してライブを楽しむとともに、現代社会とも重なるどうしようもないディストピアと“向き合う”という、未来を良くしていくための光を手に入れたのではないだろうか。まぎれもない“音楽の力”がそこにあった。

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