小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード3 カンヌの夏ーマルセル 村井邦彦・吉田俊宏 作

 村井邦彦と吉田俊宏による小説『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』エピソード3では、川添紫郎(浩史)が夏のフランス・カンヌにて、伊庭マルセルと過ごした日々を描く。(編集部)

『モンパルナス1934』特集ページ

エピソード3
カンヌの夏ーマルセル ♯1

「シロー、僕の家まで歩いて10分くらいかかります。長い旅で疲れたでしょう。大丈夫ですか?」
 カンヌ駅を出たところでマルセルが言った。
「もちろんだよ。僕は足には自信があるんだ」
 紫郎はマルセルの日本語が少しぎこちないのに気づいた。若者同士、もっとくだけて話してもいいのだが、微妙な調節はきかないようだ。
「この先がカンヌのオールド・タウン。ル・シュケと呼びます。迷路みたいな石の道が向こうの丘まで続いています」とマルセルが南西の方角を指さした。
 石畳の歩道に張り出したカフェのテラス席で、若い白人のカップルが顔を寄せ合って話し込んでいる。男が気づいて「サリュー!」と声をかけ、マルセルと二言三言あいさつを交わした。マルセルはなかなか顔が広いようだ。
 テラス席の隅に陣取っているベレー帽をかぶった若い男が、クラリネットで紫郎の知らない曲を吹き始めた。マルセルが英語の歌を口ずさみ、「オン・ザ・サニーサイド・オブ・ザ・ストリート」という曲だと教えてくれた。
「ねえ、マルセル、丘のてっぺんに石造りの時計塔が見えるね」と強い日差しを手でさえぎりながら紫郎が言った。
「ノートル・ダム・ド・レスペランス教会です。100年ぐらい前まで、カンヌはこの周辺だけの小さな村でした。えーっと、魚釣りの村」
「ああ、昔は漁村だったんだね」
「ぎょそん?」
「漁村。フィッシング・ヴィレッジ」
 マルセルが「旧市街」の代わりに「オールド・タウン」と言ったのにならって、英語に言い換えてみた。
「ああ、分かります。漁業のギョに村のソンですね。その通りです」
「マルセルは英語も話せるの?」
 ちょうど丘の方から鐘の音が聞こえてきた。
「はい。僕はパリで生まれて小学生のころ日本の神戸に行きました。カネディアン・アカデミーで勉強しましたから、クラスメイトはカナダ人とフランス人が多かった。アメリカ人やオーストラリア人もいました。僕みたいにパパかママのどちらかが日本人という人もたくさんいましたよ」
 マルセルの母はフランス人だ。彼の彫りの深い顔は東洋人よりはずっと西洋人に近く、紫郎には西洋人と見分けがつかなかった。ベージュ色の麻のジャケットが良く似合っている。背は紫郎よりいくらか高いが、船に乗っていた白人たちほどの大男ではなかった。
「カナダ系の学校だったら、授業ではフランス語も使うの?」
「はい、英語とフランス語の両方です。日本語も少し習いましたけど、日本語を話すのは1つ年上の姉の方がずっと上手です。彼女は住吉聖心女子学院に通いましたから。神戸で生まれた妹も日本語が上手です。僕は読み書きなら得意なのですが、話すのは兄妹の中で一番下手ですね。女性の方が会話の才能はあると僕は思います」
「ははは、男は口じゃかなわないってことか。同感だ。でもマルセルの日本語はとても丁寧で気持ちがいいし、正確だと思うよ」
「そうですか。ありがとうございます」
 夏のカンヌの日差しは思いのほか強く、汗だくになった紫郎は上着を脱いで肩にかけた。マルセルは日焼けしているが、肌は小麦色ではなく、やけどをしたように赤くなっている。
「シロー、ここで左に曲がって坂を下っていきます。僕の家はこの先の古い港の近くにあります」
 南に下る坂道に出るとさわやかな潮風が吹いてきた。通りにはブティックやブーランジェリー、ブラッスリ―などが立ち並んでいる。
「何だか熱海を思い出すなあ。建物の様子は全然違うけどさ、駅を出てカーブする道を抜けて、こんなふうに店の立ち並ぶ坂を下っていく感じが、何となく似ているんだよ」
「行ったことはありませんけど、アタミは知っています。熱い海と書きますね。なぜ海が熱いのですか」
「いやあ、考えたことなかったなあ。海中で温泉でも湧いたのかな。ねえ、マルセル、ここはルイ・ブラン通りっていうんだね」と道端の標柱を見て紫郎が言った。
「19世紀の政治家の名前です。二月革命の人。社会主義者でした」
 社会主義と聞いて紫郎はギクッとしたが「ふーん」とうなずいてごまかした。
「あそこです。その角にあるアパルトマンの5階。最上階です」とマルセルがコンクリート造りの豪壮なアパルトマンを指さした。
「この交差点を覚えておいてください。海に向かう縦の道がルイ・ブラン、横の道はフェリックス・フォール。30年ぐらい前の大統領の名前です。ドレフュス事件が起きた時の大統領でした」
「ドレフュス事件? 聞いたことがあるような、ないような……」と紫郎は頭をかいた。
「フランス人なら誰でも知っています。ドレフュスという名の大尉が、ドイツのスパイではないかと疑われて逮捕されました。ドレフュスはユダヤ人でした。だから逮捕されたのです。後でスパイではないと分かって少佐に昇進しました」
「冤罪だったわけだ」
「えんざい?」
「ああ、日本も冤罪だらけだ。いきなり逮捕されるのは気分のいいものじゃないよ、マルセル」
 けたたましい音をたてて、オートバイが1台、東に走っていった。後ろに乗った若い女の長い金髪が鯉のぼりみたいだと紫郎は思った。
「シローも逮捕されたのですよね。でも釈放された。ドレフュスと一緒ですね。パパから聞きました」
「参ったなあ」と紫郎はまた頭をかいた。
「そうだ、さっきの話の続き。フェリックス・フォールはドレフュス事件の時の大統領ですが、作家のエミール・ゾラが『ジャキューズ…!』というオープン・レターを大統領宛てに出しました。フランスでは有名な出来事です。シローは知っていますか」
「ゾラは知っているよ。『居酒屋』を読んだ。『ラソモワール』だよね。でも大統領に公開書簡を出した話は知らなかったな。ジャキューズは『私は告発する』という意味だね」
「エグザクトゥマン! シローはフランス語を話せるのですね」
「ちょっとは勉強してきたけどさ、まだまだ、ほんの少し、アン・プチ・プだよ。マルセルとは日本語で話してもいいよね?」
「ウィ、ビアン・シュール。でもパリに行く前に、もう少し勉強しておいた方がいいですね」
「はい、マルセル先生、お手やわらかに」

ゾラのフランス共和国大統領にあてた抗議文書をのせた新聞「ローロール」。

 2人は笑いながらアパルトマンに入った。モダンなコンクリート造りで、アール・デコとアール・ヌーヴォーの中間のような植物の装飾があちこちにあしらわれている。紫郎は天井や壁をしげしげと眺めた。鉄筋コンクリートという近代工法とヨーロッパの伝統が見事に融合している。近代と伝統が木に竹を接いだようにぎくしゃくして溶け合わない東京の街を思い出して、彼はフーッとため息をついた。
「ボンジュール、ムッシュー」
 エントランスの右の部屋から白髪交じりの痩せたコンシェルジュが奇妙な節回しで声をかけてきた。マルセルは日本から来た大切な友人だと紫郎を紹介し、しばらく自分の部屋に住むことになるからくれぐれもよろしく頼むと念を押して、2基あるエレベーターの左側に乗り込んだ。
「すごいアパルトマンだね、マルセル。丸ビルより立派に見えるよ」
「僕たちがカンヌに来た4年前は新築でした。名前は忘れましたが、オーギュスト・ペレの弟子が設計したと聞いています。最上階の部屋はユダヤ人の大富豪が冬の別荘にするはずでしたが、パパがフランスに戻ってくると知って譲ってくれたのです。2人は長い友達だと言っていました」
 エレベーターが最上階に到着した。
「あれ? ここは6階じゃないの?」と紫郎が言った。
「フランスでは5階と呼びます。日本と数え方が違うのです。地面と同じ高さの階はレドショッセ、その上が1番目の階です」
「そうか、プルミエ・エタージュ。それが日本の2階なんだな」
「トレ・ビアン。さあ、シロー、入ってください」
 広いロビーに聖母マリアと大天使ガブリエルを描いた「受胎告知」と「神奈川沖浪裏」が並んで架かっている。北斎の浮世絵を見て、紫郎は船員たちの前に仁王立ちする富士子の姿を思い出した。彼女はどうしているだろうか。あの特高野郎と汽車にいた背広の男は……。
「この受胎告知の絵、雑誌か何かで見たことがあるなあ」と紫郎が言った。
「フラ・アンジェリコの『受胎告知』です。イタリアのサン・マルコ修道院の壁に描かれています。家族と一緒に旅行した時に見てきました。とても素晴らしかった。この絵はフィレンツェの店で買ってきたのです」
「そうか、模写なんだね。そりゃ、そうだよな。本物は壁画だからね」
 若い女性が小走りにやってきて、薄暗いロビーが一気に華やいだ。一匹の犬がトコトコと彼女の後についてきた。
「いらっしゃい。初めまして、エドモンドと申します。この子はタロー。神戸生まれの柴犬です」
 姉は神戸の女学校に通ったとマルセルは言っていたが、彼女のイントネーションは東京の山の手の令嬢を思わせる。そういう教育を受けたのだろう。背はマルセルと変わらない。彼女のミモザの花のような黄色いワンピースの裾に向かって、タローが盛んにジャンプしている。
「川添紫郎です。初めまして。シローと呼んでください。お世話になります」
 そう言うとタローが尻尾を振って、紫郎の膝のあたりに鼻を寄せてきた。色艶のいい赤毛の成犬だ。大事に育てられているに違いないと紫郎は思った。
「やあ、タロー。シローとタローで似た者同士、仲良く頼むよ」と紫郎が言うと、エドモンドはクスクスと笑って「シローさん、お疲れでしょう。さあ、こちらでゆっくりなさってください」と彼を促した。美しい日本語だと紫郎は思った。
 30畳はあろうかという広い居間に入ると、窓の向こうにカンヌの青い海が広がっていた。汽車の車窓から眺めたサント=マルグリット島やサン=トノラ島も見える。
 肉づきのいい中年の白人女性が微笑みをたたえて立っていた。伊庭夫人のガブリエルだ。
「コニチハ。ワタシ、ガブリエルトイイマス。ヨウコソ、カンヌへ」
 伊庭夫人の日本語は全くの片言だった。主人の伊庭簡一氏はフランス語がペラペラなのだろうと紫郎は思った。フラ・アンジェリコの「受胎告知」の絵を飾っているのは、奥さんがガブリエルという名前だからだろうか。しかし夫人はどちらかといえば処女懐胎を告げる大天使より、告知を受ける鼻筋の通った聖母マリアに似ている。若いころはこの聖母のように痩せていたのかもしれない。
「シモ~ン、どうしたの。日本からお客さまがお見えになっているわよ」とエドモンドが言った。
 広い居間の奥にあるキッチンの陰から、まだ幼さの残る女の子が半分だけ顔を出し、また引っ込めた。タローが走っていって、彼女のピンク色のスカートの裾をくわえて引っ張っている。なかなか賢い犬だと紫郎は思った。
「何をしているの、シモン。こっちに来て、ちゃんとご挨拶しなさい」
 エドモンドに促されて、シモンがうつむいたまま歩いてきた。竹ぼうきのように、ひょろりと痩せている。
「初めまして。川添紫郎といいます。シローと呼んでね」
「シ、シモンです」
 うつむいたままペコリとお辞儀をして、ようやく顔を上げたシモンと紫郎の目が合った。痩せているから大きな目がなおさら大きく見える。彼女の顔は見る見るうちに赤くなり、そのままからくり人形のようなぎこちない動きで回れ右をして、逃げるようにキッチンに戻っていった。タローがトコトコと後を追い、ガブリエルとエドモンドが顔を見合わせてクスリと笑った。
「ところでシローは何歳ですか」とマルセルが尋ねた。
「21歳だよ」
「ああ、そうですか。もっと年下かと思っていました。やっぱり日本人は年齢より若く見えますね。僕は23歳、姉は24歳、妹は10歳下です」
「私の年まで言わなくてもいいのに」とエドモンドがほおを膨らませ、怒った顔をして見せると、マルセルは「さっき、シローに1歳年上の姉がいますと言ったばかりだから、もうばれていました」とおどけて言った。
「シモンは10歳も離れているんだね」と紫郎がマルセルに言った。
「そうなんです。明日があの子の誕生日。やっと14歳になります」と横からエドモンドが答えた。
「へえー。じゃあ、お祝いをしなくちゃね」
「はい、明日にはパパもベルリンから帰ってきますし、我が家でパーティーです。シローさんも一緒に祝ってくださいますね」とエドモンドが弾んだ声で言った。

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