西城秀樹が座右の銘とした「一生青春」、その言葉が示す正真正銘のアイドル性

 西城秀樹がこの世を去ってから約2年、2020年5月で3回忌を迎えた。

 それに合わせ、往年の人気音楽番組『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)への出演シーンを収めた6枚組DVD-BOX『西城秀樹 IN 夜のヒットスタジオ』が発売され、また膨大な彼のインタビューや著書から厳選された言葉を集めた『西城秀樹 一生青春』(青志社)が刊行されるなど、その存在を惜しむ声はいまも衰えることがない。

 では、西城秀樹とはどのような存在だったのか? そしていまも古びることのないその魅力はどこから来るのか? ここでは、いまふれた本に集められた彼の言葉をもとに、その足跡を改めて振り返ってみたい。

『西城秀樹 一生青春』(青志社)

 1970年代は、現在の日本のアイドル文化の出発点である。その草分けとなったのが女性では「新三人娘」(小柳ルミ子、南沙織、天地真理)だったとすれば、男性ではいうまでもなく西城秀樹、郷ひろみ、野口五郎の「新御三家」であった。西城自身も「ぼくたち以前には、まだアイドルって言葉もなかった」と語っている。

 では、西城秀樹は歌手としての自分たちのことをどのように思っていたのか? ここも本人による興味深い言葉がある。

 西城によれば、「当時は音楽の変動期でもあって、ロカビリーともGSとも違う、新しい邦楽のジャンルを手探りで作っていった時代」だった。その先駆けが新御三家であり、「邦楽にはあまり興味のなかった人が、3人が出てきたことで変わってきた」。だから「洋楽リスナーから移行してきた男性ファン」も多かった。

 確かに西城秀樹について思い出してみても、熱狂的な女性ファンは当然多かったが、洋楽、特にロックのテイストを取り入れたパワフルな楽曲や歌唱に惹きつけられた男性も少なくなかった。小学生から兄たちとともにバンドを結成し、Led Zeppelinなど最新の洋楽をどん欲に吸収した彼にとって、そうした音楽への志向はごく当然の成り行きだっただろう。デビュー後も、音楽番組で自分のバンドを従えて歌うスタイルは当時まだ珍しかった。

 その新しい感覚は、音楽だけでなくステージングでも大いに発揮された。日本初のソロスタジアムコンサートでのゴンドラなどを使った大掛かりな演出は、現在のアイドルコンサートにも受け継がれているし、またいまやアイドルのライブでは定番になっているペンライト(サイリウム)を使っての応援も彼がパイオニアだったとされる。むろん客席とのコール&レスポンスも、彼をはじめとする新御三家が定着させたと言っていいだろう。

 そうした自分の音楽やライブにこだわり抜くアーティストとしての自覚が、歌謡史に残る大ヒットにもつながった。1979年発売の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」である。洋楽のカバーで、「Y」「M」「C」「A」の人文字の振り付けも大流行。共に歌い踊るライブの楽しさを私たちに教えてくれた。

 Village Peopleの原曲をカバーすることを思いついたのは、ほかならぬ西城秀樹本人だった。CM撮影でロサンゼルスにいたとき、車のラジオから流れてきた原曲を聴いた瞬間、西城秀樹は「これだ!」と思った。「自分でも結構カンはいい方と思ってるけど、あれほどピンときたことは空前絶後だった」と彼は回顧している。

 ところが、レコード会社もプロダクションも反対した。だが確信のあった西城は、「プロデューサーの家まで原曲を持っていって、歌ってみせて、説得した」。その結果、オリコン週間シングルランキングで1位、日本歌謡大賞を獲得するビッグヒットとなった。人気音楽ランキング番組『ザ・ベストテン』(TBS系)で“満点”となる「9999点」で1位となったのも、当時話題になった。このとき「ヒットというのは他人がつくるんじゃない、自分でつくるものなんだと強く感じ」たという言葉は、彼のアーティストとしての強烈な自負を感じさせる。

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