西城秀樹は現代アイドルの“当たり前”を築いたーー中森明夫が功績を振り返る
5月16日、西城秀樹が急性心不全のため逝去した。63歳だった。1972年に『恋する季節』で歌手デビューし、野口五郎、郷ひろみとともに“新御三家”の一人として活躍してきた西城。2003年、2011年に脳梗塞を発症するも、リハビリを重ねてステージに立ち続けてきた。西城が日本のアイドル史・音楽史に残した功績について、アイドル評論家の中森明夫氏に話を聞いた。
中森氏は、現在のアイドル文化において“当たり前”になっている様々なことを形作ったのが西城秀樹だったと語る。
「60年代にもザ・ピーナッツや山本リンダさんといったアイドル的な歌手はいましたが、今に繋がるアイドルのカルチャーができたのは、野口五郎さんがデビューした1971年以降。72年春にデビューした西城さんは、球場ライブや武道館のソロライブ、コンサートでのペンライトやゴンドラの使用、ファンと一緒に振りを踊るなど、今では誰もが当たり前に思っているアイドル文化の礎を築いた人物。40代以下の人にとっては『ちびまる子ちゃん』のお姉ちゃんが西城さんの大ファンというイメージも強いのでは。『ちびまる子ちゃん』は60年代半ば生まれの原作者・さくらももこさんの小学生時代を描いた作品で、彼はさくらさんたっての希望でエンディングテーマ『走れ正直者』を担当したこともあります。最近では時々見られますが、実在のアイドルがアニメに出てくるというのも当時はまずなかったことです」
70年代、西城は日本の音楽シーンにも新たな風を吹かせていくことになる。西城はともに新御三家と呼ばれていた野口や郷とはまた違った独自の雰囲気を持つ存在であったと中森氏は続ける。
「西城さんが本格的にヒットしたのは5枚目の『情熱の嵐』からで、その後『傷だらけのローラ』が大ヒット、1974年の『NHK紅白歌合戦』に“新御三家”の三人揃って出場しました。“新御三家”は“新三人娘(南沙織・天地真理・小柳ルミ子)”と共に芸能界に最初にアイドルという枠組みを作った存在です。60年代まではアイドルと言うより“スター”の時代で演歌や歌謡曲が多かったですが、70年代前半に西城さん含め若い歌手たちがアイドルポップスを作った。歌が上手くハンサムな野口さん、フォーリーブスの弟分で可愛らしい雰囲気の郷さんに対し、西城さんは野性的で不良っぽかった。今は当たり前になったワイルド系アイドルの始祖と言えるでしょう」
また、中森氏は韓国・ソウルオリンピックの開会式で歌唱し、中国・万里の長城でライブを行うなど、アジアでの人気も高い西城を「国民栄誉賞の対象になっても良いほどの存在」と評しながら、彼が所属していた事務所・芸映についても言及した。
「アイドルというと山口百恵さんや森昌子さんのホリプロ、桜田淳子さんや松田聖子さんのサンミュージック、最近だとアミューズやスターダストやアップフロントのイメージですが、芸映は伴淳三郎東京事務所が前身で、アイドル的なプロダクションではなかった。しかし西城さんがスター的な存在になったことで、岩崎宏美さん、浅田美代子さん、河合奈保子さん、石川秀美さん、岸本加世子さんといった“芸映系アイドル”が輩出されていきました。兄と慕う“妹分”のようなアイドルが登場したことも考えると、西城さんは女性アイドルカルチャーにも大きく貢献した人物なのです」