JO1「無限大(INFINITY)」は、なぜ“J-POP”と一線を画す仕上がりに? クリティカルな声の扱いから紐解く
J-POPにおいて歌詞が特に重視される傾向から考えれば、この「聞き取りづらさ」はちょっと異色である。
もちろんこれまでも、いわば「英語“風”」に発音を崩して16ビートのスピード感に合わせる、といったことはよく行われてきた。日本語をロックに適応させるために編み出されたこの策については佐藤良明『ニッポンのうたはどう変わったか: 増補改訂 J-POP進化論』(平凡社ライブラリー、2019年)などでも詳しく検討されている。
しかし「無限大(INFINITY)」で取り入れられているのは「英語で歌われるロック」を範とした16ビートに適応した日本語ではなく、トラップ以降のヒップホップを前提にした日本語である。また、そこには日本語ラップの蓄積も含まれていようが、いちはやくトラップ以降的なラップをポップミュージックのなかに取り入れてきたK-POPの蓄積が、たとえば楽曲の日本語ローカライズの慣習という迂回路を経ることによって、日本のポップミュージックに注入されている、と見ることができよう。もはや「英語のロックのように」を目指すのではないし、かといってK-POPの移植を目指すわけでもなく、複数の言語の影がところどころに浮かび上がっているように思う。
J-POPのガラパゴス性はしばしばその形式であったりメロディの癖であったりに求められるが、もっともクリティカルなのは声の扱いではないか。その観点からすればJO1が聴かせる声は興味深い観点を(2010年代を総括するかのように)与えてくれる。ほかのアクトにどのようにこの傾向が波及するかに注目したい。
■imdkm
1989年生まれ。山形県出身。ライター、批評家。ダンスミュージックを愛好し制作もする立場から、現代のポップミュージックについて考察する。著書に『リズムから考えるJ-POP史』(blueprint、2019年)。ウェブサイト:imdkm.com