柴田聡子の音楽に宿る“気分”の存在 『愛の休日』と『ワンコロメーター』から紐解く

柴田聡子『ワンコロメーター』

 2018年の年の瀬にこんな書き出しで始めるのもなんだが、1年前の2017年、自分にとって、とても重要な意味を持った作品として記憶されているのが、柴田聡子のアルバム『愛の休日』だった。このアルバムによって、僕は自分自身の内側に宿る「気分」というものの存在を肯定的に見ることができるようになった。昨日の自分が考えていたことと、今日の自分が考えていることが違っても全然いいし、なんなら、ある物事に対して、1時間前の自分と今の自分が出す答えが全然違っても、それはとても自然なことなんだ、と思えるようになったのだ。「そんなこと当たり前じゃないか」と言われればそうなのだが、その頃の自分にとって、それはとても「いけないこと」のように思えていたのだと思う。何かひとつ、絶対的な答えを自分の中に持って、それを世の中に提示できなければいけないのではないか?――そんな思いに捕らわれていたのかもしれない。

「音楽表現として伝える」ことに意識的になった『愛の休日』

 しかしながら、弾き語り、バンド、打ち込みと1曲毎にコロコロと音楽的話法を変え、さらに、音自体の質感すら変えながら、生活や筋肉や感情や記憶やロマンの様々なニュアンスを見事に音楽に定着させた『愛の休日』を聴いて、僕は、自分の中から生まれる「気分」というものに、もう少しちゃんと向き合ってみようと思った。そのことによって僕は、「気分はコロコロと変わっていく。でも、せっかくなら、その気分を抱くことができた一瞬一瞬を大事にした方がいいな」という、ポジティブな決意のようなものを、自分の中に芽生えさせることができたような気もしている。そして同時に、自分の個人的な「気分」に敏感になることが、ときとして時代や社会の全体的な「気分」と対立するということも、なんとなく受け入れるようになっていった。

 「気分」という書き方をしているせいで、柴田の曲そのものがとても曖昧なものだと捉えられてしまうかもしれないが、そういうことではない。むしろ『愛の休日』において彼女が作り上げた楽曲たちは、とても力強い具体性を持って響いていた。それまでの彼女の作品では、ときとして「音楽として」というよりも「文学として」の具体性が強い印象を持たせるものもあったが、『愛の休日』はあくまでも「音楽表現として伝える」ことに意識的になったアルバムのようにも思えた。リリース時のインタビューなどを振り返ると、それはアルバムのうち数曲でプロデュースに参加した岸田繁(くるり)との出会いなども影響として大きかったようだった。

 とにかく、『愛の休日』には過度な物語性やセンチメンタリズムが入る余地はないように思えた。むしろ『愛の休日』を特別なアルバムたらしめていたのは、装飾としてのエモーションやストリーテリング、あるいは過度なセンチメンタリズムを取り除いたうえで、それでも、壮大な人生賛歌を聴いたときのようなカタルシスに辿り着いていたからなのだと僕は思っている。「あなたは生きています! 私も生きています!」という、ともすれば「メッセージ」とも言えてしまいそうなものを、(妄想やロマンはあれど)嘘や装飾的な演出はなしで、『愛の休日』における柴田聡子は伝え切っている感じがした。問答無用で聴き手に涙を流させるような安直なカタルシスを周到に回避しながら、あらゆる喜怒哀楽をひっくるめた「生きていること」の確かさを、彼女は見事に表現していたのだ。個人的な体感で言えば、それは、ゆらゆら帝国の音楽を聴いたときに感じるものに近いような気もした。ゆらゆら帝国のようなサイケデリアは、柴田聡子にはないけれども。

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