ボブ・ディランがフジロックに出演する意義ーー2018年はフェス文化の分岐点となる

フェスの現状に機能するであろうステージに期待

 話をフェス文化に移すと、フェスのあり方も時代とともに大きく変化しました。60年代後半ヒッピー時代のカウンターカルチャーの高まりから生まれた『ウッドストック・フェスティバル』はほとんどプロモーションがされないまま開催されました。ストーンズの大規模フェス『オルタモント・フリーコンサート』も会場が決まったのは開催日の直前だった。フジロックのロールモデルでもある『グラストンベリー・フェスティバル』は、そもそもは『ウッドストック』に対するヨーロッパからの回答として始まり、その後も紆余曲折がありながらも、反核政党や自然保護団体からの全面的なサポートを受けて発展してきた歴史を持っている。今、世界最大のフェスでもある『コーチェラ・フェスティバル』はいい意味でも悪い意味でもビジネスライクですよね。今やコーチェラは、そこに集まった世界中のセレブを追いかけたり、フェス仕様にがっつりコーディネイトした自分たちのセルフィーを撮るための場所でもある。そういうふうにそれぞれのフェスのあり方も時代とともに変化していきました。

 一方で日本では、海外のフェス文化の歴史とは完全に切り離された、邦楽中心のまったく独自の文化が発展してきた。その結果、このグローバルな時代に、文化的な鎖国推進装置として機能している、そういう見方もできなくはない。だからこそ、長年、多文化的な価値観をオファーしてきたフジロックに心酔してきた僕みたいな人間からすると、もしボブ・ディランが日本で唯一アクセスできるフェスとしてフジを選んでくれたのなら、本当に嬉しい。

 ただ、嬉しい反面、グリーンステージに集まった3万人の観客がボブ・ディランをどんな風に見つめるのかという不安はあります。実は、同じくヘッドライナーであるケンドリック・ラマーに関しても不安があるんですけど。ディランの場合、先ほどもお話したとおりなので、どんなに予習してもほぼ意味がないんですよ。「俺はディランの大ファンだ!」と自負してる人でもほぼまっさらな状態でライブに向かわざるをえない。ただ、そもそもライブの現場もフェスも、まったく知らないアーティストや音楽に出会う、発見の場所でもあったはずですよね。でも、いつの間にかフェスの現場が、まるで誰もが知ってる曲で盛り上げるという決まりがあるような、おかしな状況になってしまった。自分の過去の思い出に出会う場所、ノスタルジアとナルシズムに浸る場所に堕してしまった。わざと厳しく言えば、ですよ(笑)。

 そういった現状に対してもディランのステージは批評として機能するはずです。「本当にあなたたちは音楽が好きなのか?」「知らない音楽に出会うことで自分自身が昨日とはまったく別の人間に変わってしまう、という音楽に最初に感動した時の体験を忘れてはいないか?」ーーそうしたごく当たり前のことを観客のひとりひとりに問いかける空間になるのではないでしょうか。だから、予習の必要などない。付け焼き刃的にベスト盤を聞き込んでもまったく無意味。ただ、今のフェス文化にすっかりスポイルされてしまった常識をすべて捨てて、目の前で起こっていることにまっさらな状態で向き合うという気構えだけが必要なんです。

偉大な2人の“リリシスト”が揃ったヘッドライナー

 今年のフジロックのヘッドライナー3組の並びは素晴らしいと思います。特にボブ・ディランとケンドリック・ラマーの2人が並ぶブッキングというのは世界的にも珍しいはず。ケンドリック・ラマーはラッパーとしてのスキル自体No.1なんですが、“現代のボブ・ディラン”と呼ばれることもあるようにリリシストとしての才能が飛び抜けてるんですね。フロウのための歌詞のデリバリーの的確さはもちろんのこと、見事なレトリックやストーリーテリング、固有名詞の引用、人称の使い方や、一曲のヴァースの中で語り手を変える手法など、リリックの世界で何ができるかを常に推し進めているアーティストなんです。さすがにディランが50年以上やってきたことには敵わないんですけど(笑)。ただ、60年代に発見されたボブ・ディランと2000年代に発見されたケンドリック・ラマーという偉大な2人のリリシストが揃ったのは画期的だと思います。これは世界に誇ってもいいと思う。7年ぶりの新作を発表したばかりのN.E.R.Dはおそらく「Happy」筆頭にファレル・ウィリアムスのソロ曲も演奏してくれるに違いない。そういう意味ではバランスも取れている。総じて、2018年のフジロックは素晴らしいヘッドライナーが3組揃ったと言えると思います。

 かつてのフジロックに比べると、2010年代のラインナップは決して褒められるようなものではなかった。実際、日本全体が文化鎖国状態を強める中ですごく苦労してきたんですね。良くなってきたのは一昨年あたりから。一昨年のヘッドライナーはSigur Rós、BECK、Red Hot Chili Peppersと90年代のスターを3つ並べて、去年もGorillaz、エイフェックス・ツイン、Björkとエレクトロニクス系の90年代の人気ものを3組並べた。つまり、ヘッドライナーに20~25年前からのスターを並べて、どうにか集客を担保する一方で、文化鎖国状態の日本ではあまり知られていない最前線でリアルタイムで活躍する新人や中堅アーティストをなんとか呼んできた。それがここ2年なんですね。

 でも、今年はヘッドライナーにケンドリック・ラマーがいて、中堅や新人のラインナップも本当に素晴らしいんですよ。つまり、今とこれから、そして、過去の歴史の両方を伝えるという、黎明期からのフジロックがどんなメディアよりもしっかりとやっていた役割に立ち戻った感がある。並び立つ『サマーソニック』も今年は最高のラインナップ。特に新人のブッキングはサマソニがずばぬけていて、世界中が注目している新人が15組くらい出演します。もっとも日本だとごく一部にしか知られていないんですけど(笑)。だからこそ、今年の両フェスのラインナップに大興奮しているのはほんの一部で、実は集客は厳しいのかもしれない。

2018年は“未来”に向けた分岐点に?

 総じて2018年というのは、もう一度、日本のフェス文化が息を吹き返すタイミングなのかもしれないと思います。ただ鍵になるのは、各フェスがこれだけ最高なものを揃えたんだと、主催者やメディアがこれからしっかりとプロモーションできるか。エンドユーザーが現場に行って、しかるべき反応を示すことができるのか。うまく行かなかったら、また欧米や中南米、東アジア諸国より20年遅れどころか、日本だけがさらなる孤立を深めることになるかもしれません。ただ、フェスはいまや国内の人間が足を運ぶものだけではなく、海外からの参加者が旅行がてら遊びにくるというカルチャーになりつつある。アメリカやヨーロッパはもう完全にそうですね。でも今年のラインナップなら、中国や韓国、東アジアはもとより、欧米からも多くの観客を呼ぶ込むことができる。その可能性に期待したいですね。

 そもそもJ-ROCKのような画一的な音楽ばかりが鳴っていて、同じ人種、同じようなトライブばかりが集まったイベントはそもそもフェスとは呼べない。歴史的に見れば、そう言わざるをえない。フジロックのロールモデルでもある『グラストンベリー』が果たした功績のひとつは、以前なら対立していたヒッピーとパンクスがフェス文化の中で交じり合ったことですから。だから、今年はケンドリック・ラマーやディランの前で、異なる人種や世代の人々が交じりあう光景が何よりも観たいですね。それを目撃しさえすれば、例えば、多様性といった現代的なイシューについても瞬時に肌で理解できたりすると思うんです。だからこそ、2018年というのは、いろんな意味でフェス文化の分岐点であり、日本のカルチャーの未来に向けての分岐点なんじゃないでしょうか。

(構成=久蔵千恵)

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