荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第3回
荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第3回:YMOとアフリカ・バンバータの共振
1967年にジャマイカからの旅客機からJFK空港に降り立ったクライブ・キャンベル少年、すなわちヒップホップの創始者の1人、DJKoolHercの有名なエピソードに触れずとも、ヒップホップ/ラップの前にいたのはジャマイカのレゲエ/ダブであることは間違いない。音楽を通してのバトルの形式は、MCのフリースタイルの前にDJ同士、サウンド・システム同士のものがあるわけだが、それはジャマイカに遡る。また、早くも1960年代にはラップにあたるトースティングが、ダンスホールではマイクを通して行われており、彼らがボイス・オーバーをしたのは、既にリリースされた曲のインストゥルメンタル/ダブ・バージョンだった。マイケル・E・ヴィールが指摘したように、それは“録音されたポピュラー音楽を「形の決まった『商品』」から「より流動的な『過程』」に変えた”。ヴィールは、先行していた写真や映像といった記録芸術と同じく、”記録目的しかないと誤解され、劣った見せかけの現実しか作れないと思われていた”録音芸術が、ジャマイカのダブでは“新しい形の現実”を作り出したのだ、という。アフリカン・ディアスポラという未曾有の経験をした民族は、テクノロジーを創造的に使うことで、ダブの異世界的に響くエコーやリヴァーブのなかで、極端に理想化されたプレ植民地主義の、音像としてのアフリカを作りあげた、それはサウンドのマジック・リアリズムだという。
現実の日々と似て、アートの文脈でも、たったひとつの出来事、たったひとつの夜、たったひとつの作品がその後の時間に戻りようのない影響を与えていく。
1980年10月3日から始まったワールドツアー『FROM TOKIO TO TOKYO』の期間中、11月2日、ロサンゼルスでのテレビ番組『ソウル・トレイン』のYellow Magic Orchestraの公開スタジオ収録は、日本人とアフリカ系アメリカ人双方がお互いを発見することとなり、ヒップホップの歴史の決定的な影響を与えた。
さて、Yellow Magic Orchestraとそのメンバーたちは、このツアーの前後にもヒップホップの歴史からみて重要なリリースをしている。そのひとつは、ナイジェリアの“アフロ・ビート”の創始者として知られるFela Kutiに影響されたワン・コードにしてダブ楽曲、坂本龍一のソロアルバム『B2-Unit』からの「riot in Lagos」である。
1977~78年ーーMalcolm McLarenとSex PistolsがロンドンとUKを丸ごとシチュアショニスト流儀に倣って“スペクタクル”でまだ騒乱に巻き込んでいる時期ーー日本とアメリカ、そしてヨーロッパのレコード会社やジャーナリストたちはいわゆる“第三世界”からの音楽に注目をし始めていた。これは後に拡大して“ワールド・ミュージック”ブームに繋がっていく。Fela Kutiの作品もレコードとしてアメリカでもリリースがされ、輸入盤として日本にも入ってくるようになっていた。そのうちの1枚、例えば「Expensive Shit」といった曲を聴くと、坂本龍一の影響を受けたという発言を理解できると同時に、西欧音楽の直線的な歴史から自在に概念を引き出し、暗喩や音響的表象としてのダブ、その芯を見透していたことにあらためて瞠目する。
Riot in Lagosは、ヒップホップの創始者であり歴史を変えた「Planet Rock」をリリースしたDJ Afrika Bambaataaに大きな影響を与えた。
そしてYellow Magic Orchestraの3rdアルバム『BGM』に収められた細野晴臣の「RAP PHENOMENA/ラップ現象」。テクノロジーの間に顕れる“もののけ”への関心をロック以前のポピュラー音楽の伝統に沿ってノベルティ・ソング的に仕上げたものだが、その後スネークマンショーのためにラップ/ディスコ曲「咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3」をプロデュースする初期の日本語ラップ史に重要な細野晴臣の最初期の仕事である。また、ここでの「1、2……」と断続的な日本語での数のカウントはKraftwerkでの「Numbers」と同じく太平洋を越えて「Planet Rock」に直接に取り入れられただろう。
KraftwerkとならんでYellow Magic Orchestraが、Afrika Bambaataaやそれに続く長いヒップホップの時間と空間と共振をみるのは、しかし、いくら歴史的に重要であってもある特定の1曲のあるフレーズの引用にあるというのではないーーAfrika Bambaataaは、「Planet Rock」や現在までに彼がリリースした楽曲のみで知られているのではない。彼はブレイクビーツという概念を拡大しほぼ現在までに渡って広く流布している(ヒップホップ)DJの定義を与えた。
Afrika Bambaataaの他の幾つもの顔と活動、サウス・ブロンクスのストリート・ギャングのリーダーとして組織のみんなを音楽によってポジティブな方向へ再編成していくこと、ミュージシャンとして新たな楽曲を創作することなどは、他人の楽曲(のブレイクビーツ)を操作するDJという行為とばらばらにあるのではない。
そこには“ほんとうにKraftwerkとYellow Magic Orchestraにのめり込んでいた。私は、バンドなし、電子楽器のみのレコードをリリースする最初の黒人グループになりかった”というAfrika Bambaataaの欲望がある。この欲望は、彼が現実世界で居住していた荒れ果てたサウス・ブロンクスとその周りを取り囲むアメリカ合衆国において彼が見てきた“黒人は、あれはしてはいけない、これもしてはいけない”環境と繋がっている。彼が選ぶブレイクビーツが、その初期からThe MonkeesやThe Rolling Stonesの名曲やBilly Squierの「The Big Beat」といった幅広い選択肢にあったことを生み出しているのは、現実世界で黒人ーーアフリカ系アメリカ人としてホモジニアスな方向へアイデンティティを補強するのではなく、彼らが押し込められた低所得者用の団地の窓から外に見える広い世界に向っていく、社会的/心理的な要因と呼び合っている。そこでロボットがすべてのKraftwerkの汎ヨーロッパ的な美学、YMOのテクノロジカルで未来的“魔術”を発見したのだ。よく知られているように、アフリカ系アメリカンの文化史のなかで、こうした傾向や考えを持つのはAfrika Bambaataaが最初ではない。彼の前には、劣悪な環境への失望が彼をして地球を離れさせた、Sun Raという特異な、偉大な先駆者もいた。SF的な意匠とともに残るSun Ra以来のこの未知の世界への欲望は、“アフロ・フューチャリズム”と呼ばれ知られるようになった。