『Music Factory Tokyo』スペシャルインタビュー
L-m-T&イワツボコーダイ、若手音楽作家が語る“コライトの利点” 「1人で喜ぶより、2人、3人でハイタッチするほうが嬉しい」
音楽を創る全ての人を応援したいという思いから生まれた、音楽作家・クリエイターのための音楽総合プラットフォーム『Music Factory Tokyo』が、Sonar Pocketや関ジャニ∞、西野カナなどの作・編曲に携わるKAYと、Kis-My-Ft2や剛力彩芽、カスタマイZなどを手掛けるGRPによるユニット“L-m-T”と、Hey! Say! JUMPやKARAなどの楽曲を制作し、L-m-Tの2人とも仲の良いイワツボコーダイとの対談記事を公開した。
同サイトは、ニュースやインタビュー、コラムなどを配信し、知識や技術を広げる一助をするほか、クリエイター同士の交流の場を提供したり、セミナーやイベント、ライブの開催など様々なプロジェクトを提案して、未来のクリエイターたちをバックアップする目的で作られたもの。コンテンツの編集には、リアルサウンド編集部のある株式会社blueprintが携わっている。リアルサウンドでは、今回公開されたインタビューの前編を掲載。インタビュー前編では、彼らのキャリアやプロとして踏み出した一歩目、ぶつかった壁や音楽との距離感などについて、じっくりと語ってもらった。
「あそこでGRPに会ってなければ、確実にデコトラの運転手をしていた」
――3人は、それぞれどういうきっかけで音楽に触れたのでしょうか。
GRP:僕は、子供のころに学童保育へ入っていて、毎日先生のピアノを聴いてたんです。そこからピアノに興味を持って、たまたま家にあったアップライトピアノを使って、耳コピを始めたのが音楽の原体験ですね。でも、そのころは楽譜が読めなかったので、家にあった中島みゆきの楽譜を見て勉強して。あと、当時は世間がバンドブームの渦中にあったので、小学校6年生の時にバンドを組んで、そこではギターを弾いていました。一日8時間くらいは練習していましたね。
イワツボコーダイ:僕は、父親がクラシックギターを弾き語りしていたこともあり、小学生のころから家にあったギターとコード本を見て歌っていました。その本に載っていたのは、バンバンの「「いちご白書」をもう一度」や中島みゆきの「時代」あたりの歌謡曲と呼べるもので、この辺りの楽曲をかなりコピーしていたことが、自分の作曲に繋がっていると思います。
KAY:僕は3歳から、母親にクラシックピアノ教室に通わされていました。そこで弾いていたクラシックピアノが音楽を始めたきっかけです。2人みたいに歌謡曲は通っていなかったですし、クラシック特有なんですけど、譜面で弾くことしかできなかったので、コードの勉強もしていなかったんです。なので、強いて言うなら、リストとかバッハが原点といえますけど、僕の曲にはそんな感じは出てないと思います(笑)。バンドブームといえば、僕も中学時代はバンドを組んでギターやボーカルをしていました。
イワツボ:僕もバンドをやっていました。当時はCDレンタルが始まったくらいで、毎週10枚~20枚のCDを借りて聴くことでどんどん音楽にハマっていきましたね。あ、ちなみに2人は『バンドやろうぜ』って読んでた? あの雑誌を毎月買って、GLAYやL'Arc~en~Cielのコピーをするのが楽しかったです。
GRP:あったあった。懐かしい! あと、僕ら世代だと、高校生くらいで小室哲哉さんや浅倉大介さんに代表される、J-POPのブームが来るんですよ。僕もそれに乗っかるように、ヤマハのEOS-B2000というシンセサイザーを無理言っておじいちゃんに誕生日プレゼントで買ってもらいました(笑)。だけど、さすがにDTM機材はものすごく高くて買えなかったので、EOS-B2000を使ってシーケンスを組んで、打ち込みを勉強していました。
KAY:あと、高校時代だと、ゆずや19のカバーをしていた人も多かったんじゃないですかね。僕もそうでしたし。
――3人のうち、KAYさんとGRPさんは“L-m-T”というユニットでも活躍していますが、お2人が出会ったのは高校時代だと伺いました。
KAY:そうですね。16歳のときでした。一緒の高校で、同じコースの別クラスだったんです。
GRP:こいつが頭良くて、僕は悪いほうでした(笑)。たまたまKAYがピアノを弾けると知っていて、仲間内からの紹介もあって、一緒にバンドをやることになりました。高校は2人とも途中で辞めてしまったのですが、僕はその後、音楽大学のクラシックコース(クラシック科?)に入って、映像と音楽を学んでいて、KAYとは連絡を取っていなかったのですが、ある日地元の楽器店で偶然再会して。
KAY:そのころはトラックの運転助手をしていて、音楽からは完全に離れていました。
GRP:でも、「将来何やりたい?」って聞いたら「音楽プロデューサー」って答えたんですよ。だから「同じ大学来れば?」と誘って、結果的に一つ下の学年として入学してくることになったんです。そこから、個人や2人でトラックを作ったりして、同じ大学に通っているクラブシンガーのトラックを作ることが増えてきましたね。
KAY:GRPから誘われたくらいの時期に、もう母親からは「この子の音楽人生は終わった」と思われていたのですが、僕が「音大に入りたい」と言うと、すごく喜んでくれたんです。その反応を見て、後押しされた部分もありますね。だから、あそこでGRPに会ってなければ、確実にデコトラの運転手をしていたと思います。
イワツボ:子供5人くらいいそう(笑)
GRP:そう考えると、出会ってからもう15年経ってるわけですよね……。長いなあ(笑)。
――イワツボさんは鹿児島県から上京してきたのが20歳を目前にしてのことですよね。そのきっかけは何だったのでしょう?
イワツボ:2人みたいにクラブシンガーと会う機会なんてなかったので、バンドしか選択肢はありませんでした。でも、音楽で仕事はしたいと思っていたので、YAMAHAが主催する『TEENS' MUSIC FESTIVAL』に参加したら、全国大会に出場出来て、渋谷公会堂の地を踏むことができたんです。何か賞をもらうことはなかったのですが、これをきっかけに上京しようと思い、期間を空けずに東京へ出てきました。ただ、どこにデモテープを送っても連絡を貰えなくて、結局のところバンドは1年弱で解散したんです。次にスタジオミューシャンを目指したのですが、上には上がいることを思い知らされて心が折れました。そこからジャズにハマって、ギタリストとして食べていくことを志したのですが、これもダメで。でも、もともと一緒にバンドをやっていた友人は上手くいっていたので、彼に相談したら「じゃあ作曲やりなよ」と言われたんです。そこから初めてパソコンを買って、25歳にして初めてDTMに触れました。