『冥土への手紙-寺山修司 生誕80年記念音楽祭』特別企画

寺山修司生誕80周年ーー伝説の音楽家J・A・シーザーが綴る、寺山作品が目指したもの

 2015年、寺山修司生誕80周年を迎えた。寺山は「言葉の錬金術師」と呼ばれ、劇作家、演出家、詩人、歌人、小説家、評論家など多方面に才能を発揮した人物である。昭和42年に「演劇実験室◎天井棧敷」を結成、1960年代後半から70年代半ばにかけて小劇場ブームを巻き起こしたことでも知られている。

寺山修司(撮影:有田泰而 写真提供:テラヤマ・ワールド)

 1983年、満47歳という若さでこの世を去ったが、彼の遺した数々の文芸作品は今もなお多くの表現者たちに影響を与え続けている。もちろんその表現者には、音楽家、アーティストも多く含まれており、日本の音楽文化に寺山の「言葉」が与えた影響は大きい。

 来る10月11日、12日『冥土への手紙ー寺山修司生誕80年記念音楽祭』が恵比寿ガーデンホールで開催される。寺山演劇の全音楽を担当し、寺山修司の遺志を継いで「演劇実験室◎万有引力」を主宰する音楽家J・A・シーザーを中心に、大槻ケンヂ、カルメン・マキなどの寺山修司にゆかりがあり、リスペクトするアーティストたちが一堂に集結、各日に『書を捨てよ町へ出よう』『田園に死す』といった寺山の代表作名を掲げ、演劇とコンサートを融合したステージで寺山作品の世界観を表現するという。

 今回、リアルサウンドでは、同イベントに出演するJ・A・シーザー氏にメールインタビューを敢行。寺山修司と活動を共にしてきた彼ならではの鋭利な言葉で、当時の状況や寺山作品の普遍的な魅力について回答を寄せていただいた。(編集部)

天井棧敷時代のJ・A・シーザー

-まず、寺山修司との出会いについておうかがいできますか。

J・A・シーザー:寺山さんとの出会いは、生まれて始めて観劇した(渋谷にあった天井棧敷館での「時代はサーカスの象にのって」1969年)終演後の劇場での呑み会の席だったが《影めいた巨大な男》という印象以外そんなに興味はもたなかった。それより天井棧敷の劇そのものの印象が強烈過ぎて・・・だから寺山さんとは入団後も天井棧敷の演劇を通してでしか向き合っていなかったような気がする。

-寺山作品の音楽を制作する際に心がけていたことは。

J・A・シーザー:寺山さんから渡された詩や台本の特にト書き(モノローグであれダイアローグであれ台詞する、会話する人物たちは作曲イメージから外した。なぜなら演じる俳優の肉体の音楽性も音楽としたかったからじゃないかな)などから来る最初の閃きを頑固に貫いたと思ってる。心がけていたことというよりは寺山言葉世界をストレートに受け止め、わたしのストレートな音解釈で糸のように音符を紡いだということだろうか。

-寺山作品における音楽とは、どのようなものであるとお考えでしょうか。

J・A・シーザー:もう一つ、あるいはもう一人の登場人物。観客の視覚に作用する音(音楽)。観客の記憶と即興的に出会う色音(音楽)、形音(音楽)、思音(音楽)、感音(音楽)。俳優たちの皮膚から入る音(音楽=魚や両生類の体の両側にある側線という感覚器をイメージしてもいい)。そこに無い音(音楽)なんかかな。

-最も印象に残っている寺山修司とのやりとりやエピソードは?

J・A・シーザー:寺山さんそのものを通して演劇を指向(志向、、思考、いや嗜好、施工もかな)していた。つまり寺山さんという存在眼鏡をかけて演劇を見つめていたんで、寺山さんといたすべての演劇の時間がエピソードだったし、その時間でのやりとりのすべてが思い出だったから・・・思い出深いものか・・・深夜に寺山さんの自宅に呼び出され、二人っきりで話した、やはりそんな時間のすべてだな。

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