乃木坂46、ももクロ、AKB48……演劇企画が示す「アイドルというジャンル」の特性

 魔梨威がリアリティの水準を見失ったまま劇は終演に至り、他のメンバーたちが魔梨威に対し「(演劇は終わったから)もう演じなくていいんだよ」と声をかける。これもまた、乃木坂46のメンバーが役から降り現実世界に戻ろうとする位相と、劇中劇を演じていたSUGARSPOTのメンバーたちの演劇が終演したという劇内世界の位相とが重ね合わされたものだ。この「もう演じなくていい」に対して魔梨威は、「あなたたちは演じてないの?」と「アイドル」である彼女たちに問い返す。この魔梨威の台詞は、舞台上に映し出されるすべての位相を貫く。すなわち、落語家たち/その落語家たちを演じるアイドルグループSUGARSPOT/そのSUGARSPOTを演じるアイドルグループ乃木坂46のメンバーたち、というように設定自体がいくつも仮面を被っているこの演劇全体に向けて、「演じてないの?」は投げかけられる。

 この「演じてないの?」という言葉が効果的なのはまた、とかくアイドルが「実は裏では~」といったようにスキャンダラスな詮索を投げかけられやすい存在だからでもある。前回の稿では、オン/オフが侵食しあいパーソナリティが絶えずアウトプットされる今日のアイドルというジャンルを考察した。この環境のもとでは、もはや素朴な表/裏で何かをはかることの有効性は薄くなる。そうした表/裏という発想を俯瞰するように、魔梨威に向けてメンバーから「私たちはアイドルを選んで、演じることに決めた」「私たちは舞台を降りてからの方が大変だよ」といった台詞が返される。劇がほぼ終演に来ているこの段階だからこそ、ここでの「アイドル」があくまで架空の存在であるSUGARSPOTを指すのか、現実世界の乃木坂46彼女たち自身を指すのかが曖昧になる。繰り返される二重写しの視点は、アイドル演劇の特性を観る者に意識させ続ける。

 ここで『じょしらく』が興味深いのは、ともすれば「偽りの姿」といったネガティブなニュアンスが含まれる「演じる」という言葉に、前向きなプライドを込めている点だ。先の魔梨威の問いかけに対して登場人物の防波亭手寅は、「演じるというのは嘘をつくということじゃない」と返す。この「演じる」という言葉に託されるのは、ある虚構の世界をパフォーマンスとして上演することの矜持である。そしてこの「演じる」が劇内世界の役柄のみならず、アイドルである当人たちの振る舞いに重ね合わされることで、そもそもアイドルというジャンルの表現が、それ自体きわめて演劇的であることが照らし出される。

 アイドルの形式的な本分である歌やダンスも、実人生を映すものではなく、あるフィクショナルな世界の上演である。繰り返すように、その虚構の上演をし続けるという立場を選ぶ、彼女たちのパーソナリティまでも発信され続けるのが現在のメディア環境だ。アイドルというジャンルにあっては、現実世界の彼女たちのパーソナリティと二重写しの演劇性こそが楽しまれている。そう考えるとき、アイドルにとって虚/実という発想は何かを偽るものではなく、そのジャンルの表現を豊かで寛容にするためのものであるだろう。

 アイドル演劇の性質を追うことで見えてくるのは、アイドルというジャンルそのものの演劇性であった。次回は今日のアイドルシーンの中で、アイドルの演劇性を批評的に上演してみせているアーティストに着目し、ここでいう演劇性の輪郭をより具体的に探ってみたい。

■香月孝史(Twitter
ライター。『宝塚イズム』などで執筆。著書に『「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う』(青弓社ライブラリー)がある。

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