狂気演技の第一人者ニコラス・ケイジをも魅了 『マッド・ダディ』が踏み込んだ危険なテーマ

『マッド・ダディ』ニコケイを魅了したテーマ

 常軌を逸する精神状態を演じさせれば、そこはニコラス・ケイジの独壇場となる。クレイジーな言動や行動をハイテンションで繰り返すのは、名優ジャック・ニコルソンも得意としたところだ。ニコラス・ケイジは、血走った目をらんらんと輝かせながら、ここにさらに一種の音楽的ともいえるグルーヴ感をもたらし、狂気の新たな表現を新しく開拓したといえる。まさに狂気演技の第一人者といえる存在である。

 そんなニコラス・ケイジが、「ここ10年の自分の出演作で最も気に入っている」と発言したのが本作『マッド・ダディ』だ。ここで彼が演じるのは、なんと我が子を殺したいという強い衝動にかられた、文字通り狂った父親である。自分の子どもへの愛情と強い殺意という、相反する感情を同時に表現する役回りだ。

 ニコラス・ケイジは、この問題作“マッド・ダディ”をどう演じたのか。そして本作がこのような奇抜な設定を使って表現しようとする、ニコラス・ケイジをも魅了したテーマが何だったのかを、ここでは深く考察していきたい。

 マイホームを持って、妻や子どもと穏やかな日常を送る。それが、万人がイメージする平凡な幸せだ。ニコラス・ケイジが演じるブレントは、まさにそれを具現化したようなマイホーム・パパである。彼は平和な住宅地の、廊下の壁に家族写真がいくつもかけられているような家で、妻と2人の子どもと暮らしている。

 この平凡な日常は、突然のパニックによって破られる。親が自分の子どもを殺害するという重大事件が、アメリカ国内において、凄まじい規模で頻発したのだ。ある親は、帰宅した我が子を惨殺し、子どもたちの学校には、殺すのを待ちきれない親たちが大挙して押しかける。この奇怪な事件を伝えるメディアは、「テロ計画か? 集団ヒステリーか?」と、突然の事態をつかめず困惑しているようだ。

 そんな前代未聞の集団的な大事件が発生するなか、ブレントの子どもたち、カーリーとジョシュにも魔の手が忍び寄る。帰宅したブレントや母親が、他の親たち同様に、自分たちを殺そうと嬉々として向かってくるのだ。“狂ったママとパパ”対“逃げる子どもたち”。彼らは幸せの象徴であるマイホームのなかで、頭脳と体力の限りを尽くしたバトルを余儀なくされることになる。

 ニコラス・ケイジの演技が圧巻なのは予想通りだ。子どもたちが地下室に逃げ込むと、わめきながらドアをめちゃくちゃに叩き続けて泣きだすシーンは、「さすが」としか言えない素晴らしさである。

 キッチンナイフを突き出し、肉たたきハンマーを振り回しながら近づいてくる“マッド・ママ”を演じる、セルマ・ブレアの迫力もすごい。じつはこのセルマ・ブレア、お騒がせ俳優として世間に知られている。

 ニコラス・ケイジはプライベートでも、公衆の面前でわめいたり、妻に暴力を振るったりなどの問題行動でよく知られているが、セルマ・ブレアもまた、バケーション中の飛行機内で、薬をアルコールと混ぜて飲んだことで突然泣き叫び出し、空港に着くやいなや救急隊員によって運び出されたり、最近もインタビューで口を滑らせ、「キャメロン・ディアス俳優引退」という誤報の火付け役になってしまうなど、パブリック・イメージは決して良いとは言えない。本作は、彼らのそんなイメージを利用している面もある。

 さらに面白いのは、この物語が、ただの超常的な集団パニックとしてのみ描かれてるわけではないというところだ。お騒がせ俳優2人が演じるブレントやケンダルは、じつは心の奥で、平凡な家族の生活を送りながら老いていくということに、不満を抱いていたのだ。

 青春時代、ブレントは半裸の美女を膝にまたがらせながらスポーツカーを乗り回していたし、ケンダルはデザイン会社で働くセンスの良いキャリアウーマンだった。その頃、彼らは自分の人生の主役だった。それが今では、「ママとパパ」として、子どもを養い育てる脇役に甘んじている。本作では、大人たちが子どもを殺そうとするときに、不釣り合いなポップミュージックが流れるが、これはまさに、彼ら大人の“青春のテーマソング”だったのではないだろうか。

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