モルモット吉田の『At the terrace テラスにて』評:多くの観客に観てほしい極上の喜劇

モルモット吉田の『テラスにて』評

 今、取るものもとりあえず映画館へ走っても損はさせないと責任を持って請け負えるのは、『この世界の片隅に』と『エブリバディ・ウォンツ・サム』である。これらとは別に、秘匿しておきたい欲求に駆られる映画もある。松尾スズキが「黒い三谷幸喜」と岸田戯曲賞の選評で記した山内ケンジの作・演出による『トロワグロ』を、山内自ら映画化した『At the terrace テラスにて』である。これが第59回岸田國士戯曲賞を受賞した舞台劇の映画化だとか、作品周辺の情報はひとまず置く。

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 肌寒いが、外にいられぬほどではない今のような初冬の時期に、豪奢な邸宅で催されたパーティが終わりへ差しかかった頃、居残った人々が少しずつテラスへ集まってくるところから幕が開く。実はこの映画は90分全篇にわたってテラスしか映らない。なるほどテラスとは庭から一段上に広がる舞台を思わせるスペースである。山内ケンジは演劇からの映画化に対して、〈映画っぽい〉アプローチを取っていない。舞台同様、テラスだけで語りきろうとする。

 山内ケンジは、コンコルド、湯川専務などのCMを作ったディレクターとして長いキャリアを持つが、2004年から40代も半ばにして演劇の作・演出を始め、続いて自主制作の形で映画にも進出し、『ミツコ感覚』(11年)、『友だちのパパが好き』(15年)を監督している。CMから映画、または演劇から映画を撮った監督は多いが、CM→演劇→映画というルートを辿った監督はほとんどいないだろう。しかし、その奇妙な経歴が唯一無二の山内映画の世界を生み出している。

 CMや演劇出身の監督が、それまで培った方法論に頼って映画を撮ると、大半はつまらなくなる。CMのノリをそのまま持ち込んだり、舞台でしか成立しないような台詞と演技に依存することがあるからだ。しかし、映画を意識しすぎても面白くはならない。古めかしい映画技法をこれ見よがしに使うだけで、いかにして映像で語るかに無頓着では、映画っぽくした部分が逆に邪魔に感じてしまう。

 山内ケンジの映画は、一見するとCM的、演劇的と感じるが、それが見事に映画に結実することに毎回感嘆する。映像を経て演劇に向かった経歴が、演技と映像の絶妙な配分を可能にしたのだろう。山内は映画を撮ることについて、こう語っている。

「撮影をしていて、自分がずいぶん変わったなあ、と思ったことがあります。CMを演出していた頃は、編集のためのカット割りやライティングやキャメラの動きにばかり気持ちが行っていたのに、今は、とにかく俳優の演技です。俳優の心理状態がわかるようになっています。」『トロワグロ』(山内ケンジ 著/白水社)

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 実際、あらかじめキャストを決めた上で、それぞれの個性に合わせて当て書きするというだけあって、本作でも石橋けい、平岩紙を筆頭に全てのキャストがうってつけの配役で肉体的特徴も活かしたキャラクターが設定されている。だが、この発言を額面通り受け取ってはいけない。『At the terrace テラスにて』は、木に止まるムササビを捉えたショットに始まり、木々に囲まれた一帯の冷たい空気を周到に画面にみなぎらせ、来客が次々と帰っていく声に、宴のあとの雰囲気を漂わせる。新たなエピソードを追加したり、邸宅の全景や室内などを見せなくとも、見事に映画としての語り口を持っていることが伝わってくるはずだ。1シチュエーションのリアルタイム劇、さらに出演者も舞台と同じ顔ぶれだけに、劇場中継と大差ないのではないかという不安は冒頭で霧散してしまう。

 来客の一人である田ノ浦が、テラスで斎藤はる子と居合わせるのを隅から見ていたパーティの主催者であるこの家の妻・和子が、「お好きですか。ああいう人」と田ノ浦に尋ねる。この時、彼がはる子に気があったかどうかは定かではない。単にテラスにノースリーブの女性が一人でいたので、ふと気になった可能性だってある。しかし、それを疑問形ながら、ほぼ決め打ちのニュアンスで歳上の女性から言われると、それが的を射ていようが違おうが「いやいや」と答えるのが大半の日本人だろう。現に田ノ浦もそう口にして濁すのだ。本来ならば、それで話は終わるはずだ。ところが和子はなおも「え?いやいや」と食い下がる。

 これは大変な事態である。困惑するような問いかけに対して曖昧に言葉を濁すことで、われわれは何とかこの世界で対立を避けてきたのだ。それが、この映画では明解な答えを追求される。田ノ浦が「好きとかそういうのは、別にあれですよ……ないですよ」と再び濁せば、和子は「じゃあ、あまりお好きじゃない」と結論づけてしまう。そこで田ノ浦は苦しまぎれに、はる子の腕の感じがいいと言い出す。これまた本心かどうかは定かではないが、具体的である。今度こそ会話が終わるかと思いきや、和子が自らの腕を隠しながら勝手に対抗心を燃やし始めるのだ。

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 さて、この後、テラスに斉藤はる子とその夫の斉藤太郎、同姓だが他人の斉藤雅人、和子の夫でこの家の主である専務と呼ばれる添島宗之が現れて、役者はほぼ揃う。初対面の挨拶など和やかな会話がしばらくは持続するが、雅人がはる子に「奥さま、ほんと色白で」と言い出したために、はる子がどういう意味かと気色ばむ。夫の太郎が対立を回避すべく、「色の白いは七難隠す」などと冗談めかして場を収めるが、田ノ浦が「七難隠す?……え、なにも隠す必要、ないですよね」と言い出したために対立は避けられなくなる。そう、和子に倣うかのように、はる子も田ノ浦も、曖昧な会話の言葉の意味を突きつめ始めたのだ。  

 ここまでが映画が始まって10分ほどだが、驚くべきはこの後も最後まで色白と腕の話だけで進むのである。膨大な言葉が行き交うが、すべての台詞が必然と自然で成り立っている。例えば、なぜ雅人がはる子を色白と言い出したかというと、その前に雅人の顔色の話が出たからである。なぜ顔色の話が出たかも理由があるのだが、それを説明し始めると全てを語ることになってしまう。腕の話も、最初こそは田ノ浦のふとした一言にすぎなかったが、同調した宗之が、若い娘から片腕を借りて持ち帰って添い寝する川端康成の『片腕』を出してきて理論補強することで、宗之のはる子に対する性的願望が露わになる。ことほどさように、「とりとめのない建設的なお話」と劇中でもつぶやかれるほど日本人的な空虚な会話を検証していくことで、嫉妬、欲望、劣等感、嫌悪、快楽がむきだしとなる。

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