>  > 『ルーム』が呼び起こす“感動”のイージーさ

荻野洋一の『ルーム』評:“感動させる”演出に見る、映画としての倫理の緩み

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 今年の米アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞でブリー・ラーソンに主演女優賞をもたらした『ルーム』は、すばらしい演技合戦だけで2時間をもたせてしまう映画だ。誘拐監禁された女性ジョイ(ブリー・ラーソン)は犯行当時まだ高校生だった。ジョイは監禁された納屋で犯人から肉体関係を強要され、赤ん坊を産んだ。映画は子のジャックが5歳の誕生日を迎える朝から始まる。ジャック役のジェイコブ・トレンブレイ君の演技力が母役のブリー・ラーソンに輪をかけて高く、母子の緊迫した演技合戦に引き込まれずにいることは難しい。

 演者の演技を最大の魅力とする本作にはしかし、短所もある。いや短所というより、映画としての倫理が弱いと言った方がいいかもしれない。どういうことかを少し説明したいと思う。

 誘拐監禁された母子の脱出劇というのは、スリラーやホラーなどのジャンル映画にふさわしい奇想である。その点では、日本漫画を韓国のパク・チャヌク監督が映画化した『オールド・ボーイ』(2003)は、記憶に新しいだろう。これはカンヌ映画祭で審査委員長をつとめていたクエンティン・タランティーノに絶讃され、グランプリを受賞した。10年後にはハリウッドでリメイクされている。『オールド・ボーイ』は奇想に始まり、奇想に終わる。つまり、扱われた内容がいかに異常でも凶悪でも不道徳でも、映画としては一本筋が通っているのである。

 『オールド・ボーイ』韓国版の主演者チェ・ミンシクも、ハリウッド版主演者のジョシュ・ブローリンも、じつに気持ちよさそうにこの異常な物語の被害者を演じていた。イージーな挑戦だからである。プロの俳優たちにとって、極端な人物を演じるのは、最も簡単な作業だ。だから迷いを感じずに、生き生きと演じることができる。

 これに対し、日常のなかに見え隠れする喜怒哀楽を演じることは、決してたやすいことではない。リアリズムのなかで「誰か」になるためには、本当にその「誰か」と同じ人生観と生活様式を体得しなければならない。チェーホフの戯曲を演じることが、俳優たちにとって生涯をかけた課題となり得るのも、リアリズムのなかのリアルを摑み取るための闘いだからである。小津安二郎の映画を見れば分かるように、リアルな喜怒哀楽を表現するためには、その喜怒哀楽の現象面を隠さねばならないことさえあるのだ。演者には厳しい修練と探求心が求められる。

 本作のブリー・ラーソンの前年に、アカデミー主演女優賞を獲得した『アリスのままで』(2014)のジュリアン・ムーアがすばらしいのは、アルツハイマー病によるボケという異常な状態をたくみに演じたからではなく、ボケへの恐れ、悲しみ、覚悟といった複数の感情を、彼女が厳しい倫理観をもって演じきったからである。

 ひるがえって本作『ルーム』は、まるでスリラー映画の『パニック・ルーム』(2002)のようなショッキングな題材を選択している。『パニック・ルーム』は完全なるジャンル映画で、ジョディ・フォスターとクリステン・スチュワートの母娘が監禁から脱出し、犯人をやっつければ、ゲームオーバーとなる。それ以上でもそれ以下でもない。

 『ルーム』にネタバレというものは存在しない。あらかじめこの映画の母子が、監禁からの脱出に成功し、シャバでの彼ら2人の出直しがテーマとなっていることが、告知されているからである。2時間の上映時間のちょうど半分のところで母子は脱出に成功し、上映時間の残りは、シャバでのカルチャー・ギャップと適応の困難が描かれる。

 つまり観客は1本で2本分の映画を見ているのだ。ただし、これはかなり虫のいい構成ではないだろうか? 奇想で始まり、リアルで終わる。演者たちも最初は極端な状況下での極端な演技で加速し、後半は、リアリズムでじっくりと見せつけようとしている。これはあまりにもイージーなゲームプランである。

 このイージーなゲームプランを濫用して、天下を取ってしまった映画作家がいる。日本の是枝裕和監督である。彼の作る映画は、多くの場合、奇想で始まり、それをリアリズムの包み紙でくるむ。カルト教団による無差別殺人の加害者家族が一堂に会すとか(『ディスタンス』)、親に見捨てられた4人の子どもたちが独力でサバイバルするとか(『誰も知らない』)、性欲処理用のダッチワイフが感情を持って生き始めるとか(『空気人形』)、病院のミスで起きた取り替え子をスワッピングさせるとか(『そして父になる』)、そんなヘンテコな設定のオンパレードである。

 そして、それが簡単に受ける。思っても見ないような奇想で興味を惹きつけておいて、それを深刻ぶったリアリズムの手法で料理することで、なにかかけがえのない映画体験をしているかのように、観客に催眠術をかけてしまう。私は、是枝裕和の映画作法には倫理上のドーピング違反があると考えている。性欲処理用のダッチワイフを韓国人女優に演じさせ、しかもメイド服を着せるとか、イメージに耽溺するあまり、倫理観が緩みっぱなしなのである。

 『ルーム』にも、是枝裕和作品ほどではないかもしれないが、倫理の緩みがある。極端な設定で観客を楽しませたあと、一転してまじめくさった顔で、子どもに世界との第二の出会いを、母親に社会復帰の困難さを与える。突如として、映画はお化け屋敷から、普遍性の哲学問答に移行するのである。この落差は、効率のいいアドバンテージとなる。演技合戦にメリハリを付けやすく、物語の普遍性も保証しやすくなる。ようするに、感動させやすいのである。このイージーさゆえに、『ルーム』は化学調味料を添加した料理の味がする。スリラーやホラーのジャンル映画にも操が立っておらず、リアリズムの琢磨ともほど遠い。

      

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