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菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜 第4回(前編)

菊地成孔の『知らない、ふたり』評:自他ともに認め「ない」が正解であろう、「日本のホン・サンス」の奇妙な意欲作

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モデル
今泉力哉
知らない、ふたり
菊地成孔
邦画
青柳文子
韓国
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あなたが褒めているつもりでも虐待に成り得る

 「集団的な期待」や「ラベリング」は、程度にもよりますが端的に虐待です。この虐待で、完全に破壊されてしまったのが、「映画監督としての松本人志」であることは言うまでもないでしょう。詳しくは拙著「ユングのサウンドトラック」をご参照くださると幸いです。

 「ラベリング」は、よしんばそれが(1)客観的に正しく、(2)善意的な物であろうと、これも程度によりますが、虐待に成り得ります。最新作『グランドフィナーレ』が待機中のパオロ・ソレンティーノは世界中で「現代のフェリーニ」と称されまくっていますが、少なくとも『グランドフィナーレ』を『8 1/2』と比して観ようとする限り、46歳という「若造」の才能へは虐待が行われている。という事になります(恐ろしいのは、ソレンティーノ自身にも、「そっちにリーディングしたい色気」が若干認められ、これはつまり「虐待を欲しがる」という、凄まじい現代性だとも言えますが、別の機会に) 。

 ワタシは自分がアーティストでもあるのでよく解る、、、と書こうとしたのですが、ナンセンスでしたね。よしんばアーティストでなくとも、今や誰もがSNSで自分を発信し、批評され、批評し、というダンゴ状態の時代なので、集団的な虐待の話はどなたでも多少なりともご理解頂けると思います。

 毎度毎度不勉強ながら(というか、それがこの連載のフォームなのですが)、ワタシはこの、若き日本人監督の事を存じあげませんでしたし、作品を拝見したのはこれが最初ですが、今泉監督の事を「日本のホン・サンス」と、たったの一度でも書いたり口にしたりした人々は、土下座して悔い改め、データが残っていたら即刻削除せよ、とまでは言わないものの、自分の迂闊さ、もしくは物を見る目が無いのに軽はずみに発言する習慣によって、若き(若くなくても)才能を虐待によって潰してしまう可能性がある事、そして、そのツケは自分にも回って来るのだという事をよく自覚して頂きたい。しつこいようですが、「貶してないんだからいいじゃん」「表現は自由だろ」は保育園児の倫理上限です。保育士は永遠にTL上に現れません。

 「自他ともに認める」という日本語は非常に良く出来ていて、フロイドで言うならば「抵抗」という概念がある。正鵠を射抜く、正しい指摘こそ、人間をして必死の否定を導きますので、もし、今泉監督が実際にホン・サンスを敬愛していて、そう目されるべく日々努力しているとしても、あるいは全く逆に、「ホンサンス呼ばわりマジ勘弁して欲しいよな~」と、苦汁を飲む日々だとしても、「あなたは日本のホン・サンスだね」の答えはどちらも「ノー」になります。

 問題は、ではフロイド的な抵抗と別に、実際問題、意識的にも無意識的にも今泉監督はホン・サンスなのか?という客観的事実ですが、ワタシの私見では、少なくとも本作『知らない、ふたり』を観る限りにおいては、今泉監督とホン・サンスは似ても似つかない、全く別の作風です(優劣ではなく)。

 面識が無いのは言うまでもなく、インタビューした事も、インタビュー記事も読んだ事が無いまま(例によって、そんなもん検索すれば一発なのでしょうが、ワタシはワタシの流儀によって、それはしません)推測を書きますが、おそらく今泉監督は苦しんでいる筈です。

とはいえ、安易なラベリングをしないと落ち着かない、即ち愚者は、ちょっとのフックに引っかかるし、どんなもんでも餌にするので(あるいは自爆)

 でも、仕方が無い側面もあります。「<上手く行かない恋愛群像>を、淡々と撮る、人間の生態を昆虫のそれのように観察する系(エリック・ロメール直系)」と、紋切り型に切って落としてしまえば、「日本のホン・サンス」は簡単に誕生します。

 しかも本作は、ホン・サンス2014年の作品『自由が丘で』と、鏡面構造を持っています(後述の通り、やや歪んだ鏡面ですが)。これが、「ラベリングに苦しみ抜いた果てに、突破的なヤケクソで、むしろラベリングへのミスリードを積極的にしてしまう」という、正にフロイド的な自爆でないことを祈ります。

 『自由が丘で』は、ホン・サンスの熱烈なファンである日本人俳優、加瀬亮氏が主演し、氏が別れた恋人をさがしに韓国に渡る話で、設定上加瀬氏は韓国語を話しませんが、作品の中では、韓国語、日本語、英語が飛び交います(「ソウルに居着いたアメリカ人ヒッピーが英語で話していると、いきなり流暢な韓国語になる」という実に現代的なショックも入っています)。

 一方『知らない、ふたり』では、3人の韓国人が東京で働いています。そして、作品中、やはり日本語と韓国語が飛び交います。テーマはどちらも恋愛で、どちらも日韓人の政治的、文化的な緊張のようなものは、まるでこの世に存在しないぐらいに描かれません。

 とはいえ、しつこいようですが、ワタシには、ワタシの祈り虚しく、本作はホン・サンス扱いに嫌気がさした今泉監督が、苦しみ果て、自爆的にミスリードした、あるいは、「敢えて似た題材を扱う事で、むしろバイブスもロジックも全く違うのだということを際立たせようとした」のかも知れません。

と、その上で、正直書くのはマジ辛いのですが

 ワタシは本作から、ほとんど感動を受けませんでした。そして、その事に関して、申し訳なさと悲しみがあります。因にワタシは、ホン・サンスの熱狂的と言って良いファンで、ほぼ全作観ており、日本では全然セールスの低い彼の作品の旗ふり業さえもやっている身ですが、「こんなもんが(俺の大好きな)ホン・サンスと一緒にされてんのかよ。ざけんじゃねーよ」という意味では全くありません。この点は注意して下さい。

 「申し訳なさ」も「悲しみ」も、どちらも、53歳であるワタシが、まだ30代であり、その事が等身大で作風に反映されていると思しき今泉監督の作品の芯が食えない、芯の食い方も解らないのではないか自分は?という、ジェネレイションギャップと、後は年齢とも無関係なセンスですね。何れにせよ「ああ、自分はこの映画とすれ違っているなあ」という思い、それは、皮肉にも、本作の登場人物達の恋のすれ違いに、ほぼ等身大ではないかと思われるほどです。

 しかも、そうした状態を、売文業の糧として語らなくてはならないとき、これはワタシのみならず、どなただって「いやあ申し訳ないなあ」「いやあ悲しいなあ。歳くっちゃったのかなあ俺も」という感覚をお持ちに成る筈です。

スリップ(大変失礼)

 (ややスリップしますが、『セッション』のような映画は、ワタシと「すれ違い、理解しあえない」関係ではないのです。ワタシは奴(セッション)の事が、物凄くよくわかるのです。ああいったゲスな脱法ハーブをやべえやべえ言って喜ぶ重症者が山ほどいるであろうことを。なので、安心して楽しみながらボロカスに書ける訳です。それにしても「菊地はジャズミュージシャンとして、あの作品の音楽考証にケチ付けてるだけ(一般ユーザーには関係ない)」という、町山氏の(かなり)程度の低いランディングに疑問無く乗ってしまえる人々は文盲もしくは読解力に機能不全、もしくは町山氏を神格に置いているとしか思えず、事は(複合的に)結構深刻だと思っています)

申し訳なさと悲しみの再開

 ワタシにとっての『知らない、ふたり』は、「とうとう最後まで、良さが全然解らなかった」という点での、久々の巨大物件ともいえます。本当に申し訳ない。本当に悲しい。この事を、最初に正直に申し上げてから、本作に対し、可能な限りの誠意を尽くそうと思います。

そもそも、この作品のマーケットはどこにあるのか?(トップアイドルが出ているという事実により)

 実際におカネを出しているのは、クラウドファウンドでも制作委員会でもなく、何と日活で、そういう意味では「日活カラー」というか、まあこれは情報に影響されてしまっている効果かもしれませんが、微妙な「日活映画の匂い」が感じられなくもないのですが、これはやはり、登場する3人の韓国人が皆、大変なアイドルで、おいそれとは映画に出演して貰える様な人々ではないからでしょう。

 何でもタコ壷化している現在、中でも大韓民国のカルチャーというのは、愛好家専用度が他の物のアヴェレイジを遥かに超えている「巨大で堅牢な閉鎖市場」であり、「<NU’EST>のメンバーは日本デビュー的には新人とはいえ韓国の大スターで、Facebook登録者も200万人突破している。日本で公演をしたら東京ドームに出るレベルの人たちです」と書いても、韓流タコ壷の外に居る方には「ふーん」「へー」という感じでしょう。

 だから、考えようによっては、本作は、めちゃくちゃアイドル映画とも言える。韓国では所謂K-POPスターが映画やテレビドラマで達者な演技を見せる事が、日本より遥かに一般的だとはいえ、やはり「キスマイ(ジャニーズの)から3人が韓国の映画に、しかも、すげえ地味な恋愛群像劇に出た」と言われたら、ザワつくのは止められないですよね。

 「アイドル映画」という指摘は、拡大解釈すれば、本作のそこかしこに証拠が散逸しています。NU’ESTの主要メンバーである彼等3人は、良く勉強し、カタコトではありますが日本語を話します。しかしそれ以上に、彼等を取り巻く4人の日本人のうち、3人は劇中で(様々な設定により)韓国語をしゃべります。韓国語を喋らない日本人は1人だけですが(ネタバレしない為に詳しい説明は省くとして)、その人の奥さんは韓国語の先生だからペラペラです。

 そしてこれが、どうしても「(アイドルである彼等への)接待」に見えてしまう。映画という世界で「接待」されるのは、超大物かアイドルだけです。加瀬亮さんは『自由が丘で』の中で、日本語による「接待」は(いうまでもなく)全く受けません。

 そして、非常に美しいルックスの彼等に対し、例えばカメラが、全く素っ気なく、「まるで誰だか解らない様に」撮っていたとしたら、これはアイドル映画ではないな、、、という気概を感じるのですが、何カットか、まるでアイドル映画のパロディの様な「ボカしのかかったキラキラ画面に大アップ」がありますし、日本の安アパートの、せまいステンレス風呂に入るシーン、つまりサービスショットもあります。色気が出ちゃってる訳よね。

 日韓双方のNU’ESTペン(=ファン)だけでも大変な人数です。本作は巨大マーケットによるほぼ無条件な興収を約束されているような物なのでしょうか?それとも、木村拓哉さんが、監督に惚れ込んで自ら志願して主演した、ウォン・カーウァイの『2046』のように、「そう簡単には行かないんだよね」物件なのでしょうか?実際はどうなんでしょう?全く読めないです。

 既に1月から全国で縦断ロードショーしている最中ですが、作品を2回観、こうして書いているワタシも、今泉監督の意図も、それに対する観客の反応も全く推測がつきません。一番美形である「レオン(NU’ESTでは「キュート担当」)」は、毎日、手製の塩むすびを弁当として作り、公園で食べるのですが「ひー!レン様(微妙ですが、レンが本名で、レオンが訳名)のあのおむすび!匂いだけでも嗅ぎてーー!!一粒でも喰ったらキュン死するわ危険よ!!」と失神する人が続出するのでしょうか、或はワタシの様に「革製品のリフォームを仕事にしている(つまり、ワックスや靴墨を日常的に手のひらに塗っている)人の握る塩むすび。というのは、一見、吐きそうに成るけど、何かの象徴的表現なのだろうな」と思うシネフィルさんのがちょっと多かったりするのでしょうか?

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