菊地成孔の『知らない、ふたり』評:自他ともに認め「ない」が正解であろう、「日本のホン・サンス」の奇妙な意欲作

下部構造の話(映画に於ける金の流れ)

 ストーリー的にはすごくシンプルで、何人かの人間をある狭い環境の中に置いて、そこでくっついたり離れたり、誰かが誰かを好きになったりすることを描いている。7人登場しているのに、あえてタイトルを『知らない、ふたり』としているのは、恋愛でタイマンになると、あっというまに、人はお互いを「知らない人」にしてしまう。そういうことを言っているのだと思います。

 AはBを好きで、BはCを好きだけど、みんな気付かずに男と女がすれ違っていく、と。そういうのは、前述の「エリック・ロメール直系」ともいえ、よくある話で別に悪くないのですが、こんなに味も素っ気もない物語になるのかと、ちょっと唖然としてしまいました。

 この作品を語るうえではどうしても避けて通れないので&本稿読者のホン・サンスに対するリテラシーを推測するに、比較してしまわざるを得ないのですが、役者の起用の仕方、とギャラのありかたを見てみます。ホン・サンスの映画というのは、韓国ではものすごい有名な俳優ばっかり出てきて、それを全員一律ノーギャラで起用する事で有名です。ホン・サンスの映画に出るのだったら、その名誉だけで十分ということですね。日本人俳優としては超一流である加瀬亮さんも、恐らくノーギャラです。

 まあ、こんな監督は唯一無二なので、比較してちがうちがう言うのも詮無い話しですが、たとえば、本作の主要キャストの1人である青柳文子さんという方も、不勉強ながらワタシ本作ではじめて知ったんですけれど、青文字系のモデルで、トレンディな若い人というか、女優としての可能性をすごく持っている人ですよね。それから、木南晴夏さんは、舞台女優出身の実力派らしく、もう、全くプロフィール通りだ。といったオーラと演技です。

 つまりこれは「<新進の俳優を、安く使う>という意味でホン・サンスと、経済性に於いて真逆である」と言えます。経済性は下部構造ですから、それが真逆なものは、上に乗っかる物もみんな真逆に成ります。ドキュメンタリータッチのカメラワーク淡々とした展開、機械的な反復、等々、ホン・サンスの図式的なブランディングはトレースされているのですが、全く味わいが違います。

またしても「日本の空虚」に関して

 簡単に言うと、ホン・サンスは物凄くゲスくて醜いルックスの人も、女神の様に美しい人も、共に心性は薄汚く哀れながら愛すべきものがあり、登場人物の年齢幅が広く、ウディ・アレンの作品に近いです。人生に対する諦めと、何とも言えない肯定がある。

 「それは、<自由が丘で>対<知らない、ふたり>の対比じゃないよ。米韓と日本の比較だ」と指摘されるかもしれず、一方でそれはその通りなのですが、問題は、紛うかたなき日本人であるワタシが、「現代の日本風」に対して、全く味気を感じなかったという事です。

 やはり、ワタシは老いさばらえてしまい、二十代の感覚に、世界遺産ですらある「旨味」を感じられなくなってしまったのか?テレビドラマ『恋仲』の、日本式の空虚は、笑いながら楽しめたワタシですが、本作では「空虚 × 空虚=ダブル空虚→さすがに無理」という感じになりました。

 それは、あくまでワタシにとって「空虚ではない」筈の韓国人が、日本の空虚(コンビニがそれを象徴しています。韓国ドラマに出て来るコンビニは市場の様に生命感に溢れていますが、日本のドラマに出て来るコンビニは冥界の様に死の匂いがします。NU’ESTの中では「美形で知性担当」のミンヒョンは、コンビニのバイトをしていますが、「こんな所にいたら、ミンヒョン死んでしまうわ」と、ペンではないワタシまでもハラハラしてしまいました)の中に於かれた結果、空虚に飲み込まれてしまった、その空虚の強度にヤラれてしまった。という格好でしょう。

たったひとつの字幕&どっちつかず感

 レオンは後述するトラウマを背負っているのですが、それを映画のストーリーではなく、画面に出て来る字幕で一気に説明するというのも衝撃的です。「ははあ、要所要所で字幕で説明する手法が入るのか」と思いきや、何とそこしか字幕は出てこないというはかなり新しく、今泉監督の才気を感じました。「主人公のトラウマ」なんて、映画を駆動する最大の原動力なのに、いきなり寝起きのショットの脇に字で説明が出ちゃう。実に様々な解釈が可能です。

 レオンは登場人物のひとりである荒川が下半身不随になった事故の原因は自分にあると考えていて、だから相当な重荷を抱えている。荒川の奥さんは韓国人に日本語を教える講師で、、、、と、ネタバレを気にしなければいけないような映画でもないのですが、とにかく人間関係は総て繋がっています。なのにこのトラウマ自体は、恋の空騒ぎの果て、最終的に、マンションの階段の入り口かなんかで女の人に隣に座ってもらって、優しい言葉をかけてもらうというかたちで、なんて言うか済まされちゃう。これはちょっと「空虚」とは違うテイストだと思いました。

 一見すると何も起こらないと言われている小津安二郎の映画ですら、実は相当に中身があるわけです。「禅の境地」とか「日本人のシャイネス」とか紋切り型に切って落とす事は杜撰という物ですが、あれは日本映画の一種の伝統で、アンチ・ドラマチックに見せかけて、実はものすごくドラマチックなのは言うまでもありません。

 しかしこの映画に関してはただひたすらに空虚で、しかも前述の通り、「アイドル映画じゃないよ」というメッセージが無いので、つまり二重否定的に「アイドル映画、、、、、、かもね」という、腹の据わりが悪い状態の中で空虚が続き、そのまま終わってしまうのです。この「どっちつかず感」が、多くの人々にとって快感であった場合、ワタシは今後、今泉監督の作品の批評を、自己責任を取る形で放棄します。

「とはいえ」感ーー混乱が続く

 作品全体に、まったく野心がないわけではなくて、新しいものをやろうという気概はすごく感じます。そもそもの字幕の件、「何故か韓国のスーパーアイドルが」という基盤、等々の他にも、意欲的かな?と思える挿話、たとえば、ローソンのカゴが持てない潔癖症の中年女性が出てきます。ただ、「ああ、こういう人いるよなぁ」というリアルは感じないんですよ。この女性、このワンショットに出て来るだけなんですが。

 それにそもそも、キレイな顔をした韓国人青年が片言の日本語で喋ったりすると、ピュアでかわいい人に見えますよね。要するにカタコト効果ですが、この映画ではそれを、最大限とまで言わないまでも、やっぱり使ってしまっている。そして、これってギリで人種差別的な表現だと思うんですよ。

 同じ言語を喋る同じ国の人同士でも恋愛というのは難しくて、そこが切ないわけだけれど、ましてやこの映画では片言だから通じないよね、という風に映してしまっている。それは恋愛群像劇というよりも人種の問題じゃないの?とリードされてしまうのを避けられません。だって、唯一の日本人カップルの会話だけが異様にリアルなんですもの。これがもし「片言の韓国人女性3人と日本人男性3人の群像劇で、片言だから彼女たちはピュアでかわいい。カタコト効果は解っちゃいるけど」という風に映していたら、ギリでアウトですよね。でも、セーフだとしても、この文脈から言ったら、単なる程度の低い少女漫画だという事になってしまう。 

 「彼らは別に日本人と比べて特別ピュアなわけでもなく、普通の青年だ」と言う事は、作劇上ではきっちり描かれます。しかし、それを超えて、ある古典的な萌えが発生してしまうのを作品は止められていない。

 というか、カタコト効果というのは、今では「腹ではピュアでもなんでもない普通の人間だと解ってるけど、どうしても生じてしまう感情」の事だ。という風に進化発達しているのだとしたら、これは新しい。しかし、コントロール出来ている様に見えません。とにかくどっちつかずに見えてしまう。ゲスいのか、高踏的なのか。

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