「監督・指原莉乃」の3つの顔ーーHKT48ドキュメンタリーに“驚異的な平衡感覚”を見た

 HKT48初のドキュメンタリー映画『尾崎支配人が泣いた夜 DOCUMENTARY of HKT48』が、これまで作られてきたAKB48グループのドキュメンタリー映画群と違うのは、“監督がそのまま被写体でもある”ということだ。本作に監督としてクレジットされている指原莉乃は、言うまでもなくHKT48の最重要メンバーである。よく知られるように、彼女はハロー!プロジェクトをはじめとする長年の女性アイドルファンであり、同時に自身もまたアイドルとして活動し、今日の女性アイドルシーンのトップランナーになっている。その指原はこのドキュメンタリーの製作にあたって、3つの立場を同時に体現することになる。すなわち、観る側のメンタリティを作品に投影しようとするアイドルファンの立場と、アイドルというジャンルのキープレイヤー=被写体としての立場と、アイドルをいかに見せるかというプロデュース的な立場である。

 HKT48が出演するテレビ番組での役割などからも明らかなように、指原はそもそもグループ内でひとり特権的な場所にいる。彼女は単にトップにいるメンバーなのではなく、いわば引率役のように他のメンバーたちを見守り、時にはなかば劇場支配人として管理する立場だ。AKB48グループの他の誰も立ち得ないその役割は、本作『尾崎支配人が泣いた夜』の構造にも強く影響している。この映画は監督である指原自身の姿をも観察するタイプのドキュメンタリーとして構成され、各メンバーのインタビューカットは監督兼インタビュアーである指原と他のHKT48メンバーとの会話という形をとる。一見すればそれは、HKT48のメンバー同士が内面を吐露しあってパーソナリティを垣間見せるという、今日的なアイドルコンテンツとして見ることもできる。しかしそこには常に、引率役であるプロデュース側と「生徒」とが相談するような趣きも含むことになるのだ。

 指原の立ち位置をさらに特異にするのは、映画内に時折、ナレーションというよりほとんどオーディオコメンタリーのように差し挟まれる彼女自身の言葉だ。彼女は、かつて撮られた映像素材を見ながら感慨を述べていく。それは監督としての俯瞰的な視点でもあるが、同時にグループの一メンバーでありながら彼女たちと決して同化することのできない、ある孤独さを浮き彫りにするようなものでもある。HKT48結成から間もない時期の映像素材を見ながら彼女がつぶやく言葉によって、彼女自身がそもそもHKT48にとっての異邦人だったことも再確認することになる。指原莉乃はHKT48にとって最も大きなプレイヤーであり、またある意味で異物でもある。

 そんな特有の立場にたつ彼女自身を、この映画はさらに俯瞰する。指原は監督としてHKT48の日々の活動を観察するばかりでなく、「この映画を監督している指原莉乃」そのものを、突き放して観察しようとするのだ。ドキュメンタリー映画をはじめとするAKB48のコンテンツが世に浸透して以降、バックステージのネガティブな場面を含めて「すべてを見せるのが48グループ」であると語られることも多い。指原はそのパブリックイメージを自覚したうえで、作り手として過去に起こった一つ一つの出来事について、「本当に全部見せるのかどうかの判断をする彼女自身」の姿を映している。ファンは何を見たがるものなのか、それ自体単純な答えのない問いを計算に入れながら、HKT48というグループの見せ方を試行錯誤する。その姿に、かつてのファンとしての感覚、当事者であるアイドルとしての自己認識、そして何を見せるかを制御しようとする監督としての立場、この3つが重なり合って見える。

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