次世代の覇権を握る「量子コンピューター」開発最前線を追う スイス現地レポート

スイスの「量子コンピューター」事情

 最近、「量子コンピューター」という言葉を耳にする機会が増えてきた。計算速度が速く、情報を「0」「1」に変換して処理する2進法を利用した今のコンピューター(古典コンピューター)では解決できない問題を解決すると期待されている、次世代のコンピューターのことだ。

 量子コンピューター次第で、AIの精度が上がったり新薬が開発されたりと世界が変わるとされている。より高度な量子コンピューターをいち早く完成させた国が覇権を握ると言われており、どの国も開発には真剣だ。

 研究·開発においては米国などが一歩先を歩んでいたが、日本でも2020年1月に「量子技術イノベーション戦略」が決定し、国家予算を拡大して、日本の強みを活かしながら重点的な研究·開発や産業化·事業化の促進を目指している。

 すでに2021年7月下旬に日本で初めて国産初号機「叡(えい)」が理化学研究所で稼働し、その3ヶ月後には理研と富士通の共同開発である二号機が稼働。面積的には小さな国ながらも「イノベーション大国」として知られるスイスも、そんな量子コンピューターの研究·開発に積極的な国のひとつだ。昨年秋に行われたスイス大使館主催のメディアツアーに参加した筆者は、量子コンピューターの研究·開発の現場を取材する機会に恵まれた。

 メディアツアーレポート第1回では、スイスにおける大学や研究施設の取り組みや、EUとの関係で発生した大きな壁、スイスの研究員たちについて紹介する。

鍵は企業と大学の連携強化。国内で高まる量子技術への期待

 国土面積41,280平方キロメートルで九州ほどの大きさしかないスイスが、どのようにして量子コンピューター研究·開発の覇権争いに参加しようというのか。鍵は「大学と企業の連携強化」だとスイスの連邦教育研究革新事務局(SERI)のイノベーション部門のダニエル・エグロフ責任者は語る。米IBMや米マイクロソフトがスイス国内に研究所を置いており、なかでもIBMとの連携は強い。

ETHZの駐車場の一角に位置する研究室。 スイスにはQSによる世界大学ランキング上位校のスイス連邦工科大学チューリッヒ校(ETH Zurith)をはじめとする優れた工科大学がある。それらの大学には早々に量子コンピューターを設置し、数も多い。また研究する環境への投資も大きい。
「量子シャンデリア」の別名を持つ量子コンピューター。1番下についているチップを冷やすために段々の形状になっている。中は絶対零度に近い。

 ETHZは、研究施設を拡充するために専門の物理学研究所とオフィスビルを建設中で、そこには最先端の研究インフラが導入され、量子化学分野の地位を拡大していく予定だという。

専門の物理学研究所とオフィスビルの完成図

 バーゼル大学やスイス連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)などとも協力体制をとっている。大学の周辺には、量子コンピューターのコントロールシステムを販売する「Zurich Instrumets(チューリッヒインスツルメント)のように大学から始まった企業も多く集まっている。

 「ETHZ-PSI Quantum Computing Hub(チューリッヒ工科大学とパウル・シェラー研究所の共同研究施設)」のように、1箇所で量子コンピューターの研究が行える施設もあり、世界中から優秀な研究者が集められているという。

Zurich Instrumetsにて

 メディアツアーを引率したナディーン·スチュディア·レケルレ氏(プレゼンス・スイス公式引率者)は「IBMやマイクロソフトがスイスに研究所を置いたことで国民の中で量子コンピューターに対する興味が高まっています。量子コンピューターは将来性が高く、学生の中でも人気を集めています」と言う。

 これを裏付けるように、バーゼル大学のヘレナ·クリノバヤ教授も「就職活動において量子技術を理解していることが大きな強みになるのは事実です」と話す。それは、量子技術を使うことによって発展が期待される分野だけでなく、無関係の職種であっても同じだという。「量子コンピューターが世界を変える可能性があると漠然と理解している人が多く、チャンスがやってきたときに波に乗り遅れたくないから量子技術の知識を持っている学生を雇いたいと考えているからです」と言う。

バーゼル大学内の「NCCR SPIN」にある量子コンピューター。他より低い冷却温度で稼働できるのが自慢だ。

スイスの量子コンピューター研究·開発に立ちはだかった壁

 だが、スイスにおける量子コンピューター研究·開発が順調だったかというと、そうともいえないだろう。2021年に、EUの研究開発支援プログラム「ホライズン·ヨーロッパ」へのアクセスが制限されてしまったことで、スイスの研究者たちは窮地に追い込まれてしまった。

 簡単に説明すると、スイスはEUの研究チームから弾き出されてしまい、研究費も得られず、仲間と共同研究することもできず、アイディアも共有できないということだ。そのような国を好んでやってくる外国人研究者は少ないだろう。国内の研究者だってチャンスを求めて出ていく可能性が高い。

 ではなぜそんなことになってしまったのか。きっかけは2014年の「大量移民反対イニシアチブ」にあったそうだ。

 1999年、スイスはEUとの間で「第1次2者間協定」という、働く場所と住居地の自由化を定めた協定を結んだ。スイス国内の企業と雇用関係を結んでいる、もしくは起業している、スイス国内で生活できるだけの資金を持っているEU出身者ならスイスに住めることとなり、スイス国内にEU出身移民を急増させた。

 スイスの右派は、移民が増えたことで、国内における交通渋滞や住居不足が悪化したと主張して、2014年に移民の数を制限するイニシアチブを掲げた。可決されればEUとの関係が複雑化するのは必至だが、国民投票で可決されてしまったのだ。スイスとEUはホライズン·ヨーロッパの枠組みをめぐって7年間交渉を重ねたものの、2021年に離脱が決定された。

 これにより、枠組みから資金受給される予定だった研究者たちは個人助成金を申請できなくなっただけでなく、欧州全体のプロジェクトに立案したり、参加したりできなくなってしまった。EUは、救済案としてスイスの研究者にホライズン·ヨーロッパ加盟国に移って研究を続けるように促した。つまり、スイスは研究者まで失う危機に直面したことになる。

 幸いなことに、ホライズン·ヨーロッパから個人助成金を得るはずだったスイスの研究者たちは、スイスの連邦教育研究革新事務局(SERI)が同額を支払うことで研究を維持できている。また、2023年11月末にはEUとスイスの間で協議が行われ、スイスのホライズン·ヨーロッパへの再参加について、早ければ今年(2024年)には合意に至ると予想されている。あくまで暫定合意なので不安要素は残るものの、スイスの研究者に光が差し込んだと言えるだろう。

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