『マトリックス レザレクションズ』から考えるメタバース 仮想空間とともに生きていくということ
2021年は「メタバース」がバズワードとなった年だった。
流行語大賞には「NFT」も選ばれ、日経トレンディでは来年のヒット予測記事で「メタバース経済圏」をキーワードのひとつに挙げている(https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/18/00550/00001/)。新型コロナウイルスでリアルな生活圏の縮小を余儀なくされた人類は、メタバース空間へと生活の軸足を移そうとしているようにも見える。
そんな時代に、『マトリックス』が復活したことに因果を感じるのは筆者だけではないだろう。1999年に公開された1作目ではその斬新なビジュアル表現とともに、マシンが作り上げた仮想空間で人間が支配されているという世界観で世界に衝撃を与えたこのシリーズは、ディストピアとしてのメタバースを描いた先駆的な作品の1つだった。
それから20年以上が経過し、現実にネットワーク空間での生活時間が増えつつある今、最新作『マトリックス レザレクションズ(以下レザレクションズ)』は、仮想空間を生きるとはどういうことなのかを今一度、私達に再考させようとしている。
本作にはメタバース時代をどう生きるべきかのヒントがある。
マシンが支配する仮想空間からの解放を目指した旧『マトリックス』
過去の『マトリックス』3部作は、マシンが人を支配するツールとして仮想空間を描いていた。
主人公のトーマス・アンダーソン(キアヌ・リーヴス)はすご腕のハッカーとして暗躍しているが、ある日この世界が実は仮想空間で、全てがマシンによって作られた虚構に過ぎず、現実世界では人間の肉体は生まれた時からマシンに接続され、夢を見るように仮想空間で生活していることを知る。トーマスは仮想空間を抜け出し、マシンへのレジスタンスとして戦うモーフィアスやトリニティといった仲間との交流の中で救世主ネオとして覚醒していき、マシンに囚われた人々を解放するための戦いに身を投じていく。
続く『マトリックス リローデッド』では引き続き人類解放のために戦うネオという救世主が、実は仮想空間を維持するためにプログラムされた存在に過ぎないことが明かされ、3作目『マトリックス レボリューションズ』ではマシンと人類の最終決戦の末、人類は解放されて幕を閉じた。
過去の3部作は、ネオたちは仮想空間に囚われた人類を解放するために戦った。この世界では、人類は生まれてすぐに培養液のようなものに浸けられ、全身をケーブルで接続され、マシンの動力源として利用されており、意識だけは仮想空間に送り込まれ、そこが現実だと思い込まされている。
それを解放することの正当性は基本的に全編を通して揺らがず、「人間はマシンの支配から自由になるべきだ」という考えが全編を貫いている。仮想空間が快適であったとしても、それはいつわりの享楽であり、本当の自由ではないというテーマが根底にはあっただろう。
仮想空間からの脱却を目指さない『レザレクションズ』
最新作『マトリックス レザレクションズ』では、トーマス・アンダーソンはゲームプログラマーとして登場する。『マトリックス』3部作は、彼が作ったゲームであり、そんなゲームの世界を現実だと思い込んでいるため、カウンセラーに通っているという設定になっている。
しかし、その思い込みの方が実は現実で、その世界はまたしてもマシンの作り上げた仮想空間だったのだ。新たな仲間たちと出会い、トーマスはネオとしての自分を取り戻し、自分と同じく記憶を失っているトリニティを救うために戦いを挑む。
今作の仮想空間は、前3部作とどう異なるだろうか。基本構造に大きな変化はないが、各人物の見た目=アバターの扱い方がユニークだ。本作では「デジタル自己イメージ」という言葉が登場する。トーマスには自分の外見は長髪で髭の生えた中年男性に映るが、他の人物には老人に見えている。自己と他者でアバターの見え方が異なるという点は大変興味深い。また、この仮想空間にダイブする時には電話回線を必要としないあたり、前作から技術もアップデートされているようだ。
本作では、現実世界も以前とは異なる描かれ方をしている。かつてザイオンと呼ばれた、マシンの支配に気が付いた人類が集う場所は解体され、新たにアイオという拠点が設けられている。前作から続けて登場するある人物は、外の世界でマシン同士の戦争があり、生き延びた人類同士でも争いがあったと語る。
そして今作のネオたちは、必ずしも「マシンが支配する仮想空間からの解放」を目指していない。仮想空間に接続されていようがいまいが、愚かな人間は支配されたがる。酷薄な現実で生きるよりも快適な仮想空間で生きていく方が楽だし、幸せだ。だから、いくらネオたちが戦おうとも無駄なのだと、今作の敵は問いかける。
それに対してネオたちもまた、仮想空間を解体するのではではなく、より良い場所に作り替えていく意思を持ち、物語は幕を閉じる。