『俺の屍を越えてゆけ』はなぜ神ゲーなのか? オンラインゲームとしてのリメイクを夢想する
今や初代プレイステーションはまぎれもなくレトロゲームの部類に入る。ファミコン世代のゲーマーにとって認めるのが困難だが、これは間違いない。
何しろPS1の発売は1994年である。25年近く昔に発売されたハードということは、若者にとっては自分たちが生まれる前におじさんたちが遊んでいたゲームということだ。スーパーファミコンやファミコンについては言わずもがなである。
だから名作『俺の屍を越えてゆけ』(以下:俺屍)もレトロゲームということになる。
「俺屍」のことを知らない人に向けて簡単に説明すると、このゲームは短命・種絶という2つの呪いをかけられた主人公一族が神様たちと交神して子供を作りながら世代交代して仇を討つというものだ。
子供の才能は親と選んだ神様次第なので、ある意味では人間でサラブレッドを作り出すような不謹慎さがあるのだが、自分だけの一族史を作っていく感覚と圧倒的なシナリオ、ショッキングなムービー(当時は重要だった!)によってカルトな人気を博した。
2014年にはPSVitaで続編が登場したが、まあ、これには触れないでおこう。
……閑話休題。
ここ最近の桃鉄(桃太郎電鉄)やメガテン3(真・女神転生III)の成功例を見る限り、俺屍のリメイクは間違いなく神作になるポテンシャルを秘めているゲームだと思う。
そこで「ぼくのかんがえたさいきょうの俺屍りめいく」について語らせてほしい。
まず絶対に外してはならないのが余計なシナリオの改変をしないことだ。俺屍のシナリオは完成されていて余計な要素が全くない。
周回要素があるので串に団子を差していくようにサブシナリオならいくらでも入れられる構造になっているが、絶対に大筋を改変してはならない。大筋はゲームシステムと複雑に絡んでいるからだ。
そして安易なキャラ萌えに頼らないこと。
ゲームの主人公には2種類がある。一つがドラクエのようにプレイヤー本人の分身として操作するタイプ。こちらは性格付けがされていないから、勝手にしゃべったりしない。
そしてもう一つが『ファイナルファンタジー4』以降に増えた“他人主人公”だ。これはあくまでセシルはセシルでありプレイヤーとは違った人物ですよという形式である。だからプレイヤーは彼を操作しつつも視点は大きな物語に寄っていく。
しかし俺屍はそのどちらでもない。主人公はプレイヤーごとに異なる一族の血統である。俺屍はどんなに愛着のあるキャラクターができたとしてもエンディングまで連れていくことはできないのだ。
次々とキャラクターが入れ替わっていくから一族の歴史が重要になる。エンディングで紹介される一族史は宿敵「朱点童子」を討つまでの死屍累々、血みどろの歴史なのだが感動ものである。
この子供は代々剣士だったとか、この子の親は〇〇を討伐したとか、誰々と誰々の子供だからこの世代は強いとかそういった血の流れが生み出すドラマがプレイヤーの感情移入の対象なのだ。
これを無視して死なないキャラクターを入れたり、特定のキャラクターに愛着を持たせようとすれば必ず失敗するだろう。俺屍においてソシャゲのガチャに代表されるキャラ萌えは悪手である。