“第五の壁”を溶かした「SECRET CASINO」が創出する新たなゲーム体験とは? イシイジロウ×三宅陽一郎 対談

人が解脱しきれないところにエンタメの面白さがある

三宅:リアリティという点について言えば、「場の持つ力」というものはすごかったんだなと改めて感じることがあります。

 かつては会議があって、打ち合わせがあって、というスケジュールが組まれていた場合、会議室で会議をして、終わったら部屋を移動してミーティングをする、といった形で仕事が進んでいました。これによって、「場」というものを使って自分をコントロールすることができていたんですよね。

 でも会議も打ち合わせもすべてオンラインになって、「場」がなくなりました。もう僕らは垂直的に感情を切り替えたり、モードを切り替えたりしなくてはならないわけです。例えばこれまでは通勤時間を使って「起動」して、「会社で働く」ことにつなげていたんですが、いまでは会議開始時間の30分前まで寝ていたとしても、いきなり会議が始まってしまう。このように「場」を失った状態で、どういう生活を築けばいいのか、どう順応していけばいいのか、というのは大きな課題になっているように感じます。

 そしてそういう状況があるからこそ、物語においても「場」をもっと使いたい、という欲求はこれからの拡張としてあると思います。画面の向こうと対話するだけでなく、一見すると間が悪いんだけど、引き込まれるみたいな技術が、インターネットの上でも要求されていくのではないでしょうか。

 実際、こういう垂直的な立ち上げって、切り替えがしんどいんですよね。リモート会議と会議の間の時間を使って皆でモンスターを倒しましょうとか、そういう「移動している感覚」がほしいと感じることは多々あります。このように、擬似的な空間感覚を再現する需要は出てくるのかなと感じますね。

イシイ:確かに、散歩をしたり、車を運転したり、お風呂に入ったりと行った行動のバックグラウンドに思考を置いておく、みたいなことがこれまではあったんですが、リモートだとそういうのはなくなっちゃいましたね。

三宅:ただこの先、もし生まれたときから学校も会社もリモートだという社会が成立したら、もしかしたら「こんど実際に移動して会議をしてみよう」という、いわば会議ごっこみたいなものが生まれるかもしれない。

 リモートが当たり前になってたかが3ヶ月程度ですが、かつての「リアル」のほうが、実はごっこ遊びだったんじゃないかという、そんな逆転現象も感じています。

イシイ:その逆転状態こそが社会の進むべき道なのかな、と思うこともありますね。

 僕は肉体というものが好きな人間ではないんですよ。小さい頃から「何で肉体ってあるんだろう」と思ってました。仏教的に考えて肉体って苦しみしかないだろう、と。一方で僕はSFが好きだから、「情報だけの存在」とか「精神集合体」とかに早くなればいいのになと10代の頃にはもう思ってました。

 だから自分が情報体になったようなこの数ヶ月が、僕はすごく楽しいんです。

 とはいえエンタメという面から考えるとここには問題があって、肉体の苦しみがあるからこそエンタメは面白いんですよ。解脱しないところにエンタメがある。

 なので「SECRET CASINO」でも肉体的なことをやっています。枠の中の世界だけでなく、移動することで肉体的なものを表現したかったんですよね。

三宅:エンタメと身体という点からいえば、新型コロナのパンデミック前にリアルイベントが流行ったというのは、オフィスワークが一種のバーチャル化していたからだと思ってます。

 毎日毎日朝から晩までコンピューターを触り続けて仕事をしているなか、じゃあ土日もそうやって遊びたいか? と言われたらNOですよね。 

 そこにリアルゲームが解放としてあらわれてきた。山にいったり釣りをしたりするようなアクティビティと同じくらいのリアリティを持つものとして、リアル脱出ゲームが受容されたのだろうと思います。

 でもその「オフィスワークのバーチャル化」は一気に加速し、日常が全部バーチャルになってしまった。土日にリアルゲームもできない状況です。そこでギリギリの身体性を復元したい、という微妙なポイントは発生してくるでしょう。

 「SECRET CASINO」は肉体的なことをやっているというお言葉がありましたが、それは自分も感じました。役者がカメラの向こうにいる人とつながろうという感覚や、こちらが携帯を急いで取り出そうという思い。そういったぎりぎりのところで身体性が確保されていた感覚ですね。

 こういった身体性のリアリティは今後も求められていくでしょうし、それがないと保てないリアリティはあると思います。

イシイ:SCRAPのきださおりさんは身体性を大切にするクリエイターなんですよね。リモートでのリアル脱出ゲームでも、参加者に「着飾って来てください」というリクエストをされたりします。

 家で楽しむエンタメなのだから楽な格好で参加してもOKなはずなんですが、着飾ることで、身体性を意識して参加することになるわけです。これはきださおりさんらしい拘りだし、イシイとの違いでもありますね。

「場」が生成してきた物語のアーカイブは人生の補助線だった

三宅:「場」についてさらに言えば、僕みたいに自我が弱いタイプだと、会社に一歩踏み入れることで会社員になれたという側面があります。「場」の持つ力で「会社員」になれたんですね。カンファレンスで発表するときも同じで、登壇した瞬間に「講演者」になれました。

 でも「場」がなくなると、そういう形成力もなくなって、ずっと素の自分でいるしかなくなりました。そうなると、「場」による変化の力がほしくなるんです。「ちょっとだけ違う自分」になるための「場」がほしいな、と。

 でも今後はそういう「場」の力がない、という前提で考えていく必要があります。実際、場に甘えていたのも事実ですしね。ちゃんとした社会人や、ちゃんとした講演者になるにあたって、「場」の力を借りてギリギリやっていたわけです。

イシイ:ここ10年くらいで「場」の力って弱まってきたと思うんですよ。僕が独立したのも、「場」の力が弱まっているからだったりします。

 実は自分も場に依存してきたタイプで、家で仕事できない人間だったんですね。でもSNSの発達で、仕事が24時間、家でもできるようになり、これによって場の力が弱まりました。「会社じゃなくても仕事できるじゃないか」という実感が得られたんですね。

 いまは家でも仕事できているし、もう会社やオフィスを作りたいとも思いません。組織や「場」が、必要だと思わなくなったんです。

三宅:多くの会社がすんなりと在宅ワークにシフトできたのも、「場」の力が弱まっていたという背景はあると思います。案外みんな、ふっとシフトできましたよね。

 これが10年前だったら、かなり苦しかっただろうと思います。

イシイ:そうですね、10年前だったら、僕も「会社に行きたい」「会社に行かなきゃダメだよ」と言っていたと思います。

三宅:僕の場合、これまでは休日にもわざわざ、なにかの作業をする場合には、場を変える必要があったんです。その場にいないと、入らない「モード」があったんですよ。場が持つ雰囲気が必要だと思っていたんです。

 でも、そんな僕ですら気づかないくらい、ゆっくりと場の力が減っていった以前であれば、「場」がストーリーを与えてくれていました。大学という場ではこんな生活があって、会社という場ではこんな生活があってという事前のインプットも、さまざまな物語を通じて獲得できました。

 でもいまや自分自身、一人で物語を作っていかなくてはならない。社会が急激に変わったことで、参照できるアーカイブがほとんど存在しない状態です。

 そのうえ、学生時代と会社員時代で、自分から見える「場」は同じです。同じ場所で、同じものに囲まれながら、違う物語を作るというのは、普通はできないのでは? と思ってしまいます。

イシイ:確かに、物語のアーカイブを使えないのは辛いですね。

 僕の場合、高校時代に祖母から曽野綾子の『太郎物語』を読めと言われまして、実際それが将来へのイメージになって、安心できていたいんですよね。物語のレールに乗った自分の人生がイメージできていました。

 そうか……僕は自分で物語を作っているからなんとかなっているのかもしれないですね。

三宅:今、参照できるのは「裸の太陽」(アイザック・アシモフ、1957年)とかですかね? むしろ現実がSFを追い越して、SFの世界にいるみたいな感覚すらあります。

 なので、この状況におけるロールとなる物語を提供する必要と需要は高まってくるでしょうし、そこに素材を提供するのはエンタメの役割だと思います。昔からヒーローというものは長い距離を移動してきましたが、まったく移動しない主人公が求められる時代なのかもしれません。

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