『急に具合が悪くなる』が描く“確率”という運命論への抵抗 濱口竜介が映した“関係性”

未来の死のために“今”を消費しない

本のなかで、宮野は哲学者のマルティン・ハイデガーが『存在と時間』で説いた「死はたしかにやってくる。しかし今ではない」という死生観を引き合いに出している。確かに、死はいつか必ずやってくる。けれど、未来の死のために今を準備して消費する生き方は、結局のところ、今ここにある生から目を背けることと同じなのだ。マリは死を前にしながらも、未来のために今を消費する生き方をはっきりと拒絶する。
だからこそ、マリー=ルーとマリが夜通し語り合うシーンは、奇跡のような美しさを放つ。ここで2人は、フランス語と日本語という異なる言語を交差させて対話する。思えば、濱口監督は『ドライブ・マイ・カー』(2021年)の多言語演劇においても、俳優たちが互いの言葉の意味を瞬時に理解できないからこそ、相手の視線や声のトーン、息遣いといった身体的反応に全神経を集中させる姿を描き出していた。

情報がノイズなく、効率的に伝達されることばかりが求められる現代において、母語を共有しない2人のコミュニケーションは一見するとひどく非効率だ。しかし、言葉に頼れないからこそ、彼女たちは相手のわずかな身振りを逃すまいと、全身で聴くことになる。『ドライブ・マイ・カー』で舞台上の俳優たちに起きたあのマジックが、本作ではパリの夜の街角で、2人の個人の間で親密に立ち現れるのだ。
さらに言えば、この奇跡的な関係性をスクリーンに定着させたのは、濱口監督が徹底して行う本読みという演出メソッドにも繋がる。感情を排して何度も台本を読み上げるこの手法は、俳優たちから「役を演じる」「感情を表現する」という自意識のコントロールを剥ぎ取っていく。役割や技術という記号(ラベル)を剥がされた先に残る、生身の俳優たちの声のトーンや純粋な身体反応。それはまさに、作中で描かれるユマニチュードや演劇が目指したラベルの解体が、映画製作の現場で実践されていることを意味している。

役割から解放された俳優たちの身体を通して、マリー=ルーとマリは言語の壁を軽々と飛び越えていく。確率という運命を退け、今、目の前にいる相手にすべての関心を向けること。ただ純粋に時間を分け合うこと。その映像とカッティングの連なりそのものが、2人の「魂の分け合い」を確かに証明している。
間違いなく『急に具合が悪くなる』は、心と身体を喜びで満たしてくれる、記憶に刻まれる一本だ。
参照
https://digital.asahi.com/articles/ASV6305JWV63ULLI00FM.html?ptoken=01KTRMM20GYJREN5434A9JPM6E
■公開情報
『急に具合が悪くなる』
全国公開中
出演:ヴィルジニー・エフィラ、岡本多緒、長塚京三、黒崎煌代
監督・脚本:濱口竜介
原作:宮野真生子・磯野真穂著『急に具合が悪くなる』(晶文社)
提供:「All of a Sudden」JPN Partners
配給:ビターズ・エンド
製作:Cinefrance Studios、オフィス・シロウズ、ビターズ・エンド、Heimat Film、Tarantula
フランス=日本=ドイツ=ベルギー合作
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