カンザキイオリ「正しい命の浸かり方」
カンザキイオリにとって創作は“呪いであり救い” クリエイティブの源泉となった『呪怨』

2003年に公開された清水崇監督による作品です。私が初めてこの作品を知ったとき、ゲオでVHSをレンタルされたものを観たのがきっかけでした。VHSなんていわれて、皆さん想像できるでしょうか。今の子たちは、きっとVHSを知らない子たちのほうが多いのでしょう。
昔はデジタルではなかった。家庭用のアナログテープなのです。DVDやBlu-rayなどしか知らない方もいるのでしょう。昔の作品は今と違って、画質がそれほど鮮明ではなく、ぼやけていたり濁っていたり、ノイズが走っていたりしたものです。当時のような古いものが、実は今でも愛され続けていることもあります。それは、映像が古いからこそ芽生える恐怖というものが散りばめられているからです。映像が濁れば濁るほど、不鮮明であればあるほど、鮮明に想像を求めてしまう恐怖。
『呪怨』は今でこそたくさんのシリーズがありますが、実は一番最初の始まりは、「VHS版」が始まりでした。ビデオ版、いわゆるVシネマというやつですね。映画館での公開を前提とはせず、最初からビデオで販売、レンタルされる映像作品のことを、Vシネマといいます。1990年〜2000年代初頭くらいに、特に盛んだった形態で、劇場版映画よりも低予算で、ビデオだからこその表現の自由がありました。若手監督の登竜門などという見方もあり、この作品の清水祟監督の他に、『CURE』や『回路』という若干コアなホラーを手がける黒沢清監督など、たくさんの監督がVシネマから頭角を出してきました。
VHS版『呪怨』、そしてVHS版『呪怨2』、そして今回紹介するのが、劇場版『呪怨』。
このホラー映画は、なんてことのない家の話です。家、があります。ただの家。なんてことのない。ただの一軒家。その家に関わった者は、全員死ぬ。そんな話。
「強い怨念を抱いたまま死んだモノの呪い。それは死んだモノが生前に接していた場所に蓄積され、『業』となる。その呪いに触れたモノは命を失い、新たな呪いが生まれる。」
そんな嫌すぎるメッセージから、この物語は始まります。強い怨念。私も抱いたことがあります。怖いですね。私も死ぬタイミングを間違っていたら、呪怨みたいになっていたのかも。様々な登場人物のキャラクターが、その家に関わる様々な体験から物語を進んでいきます。物語の一番最初のキャラクターは、介護ボランティアの女性です。前任の担当者と突然連絡が取れなくなり、代わりに介護ボランティアのその女性が1人でその家に行くことになりました。
殺風景な住宅街の中にある、どこにでもあるような、そう、あなたの家のような、普通の家。今は徳永家という家族が住んでいます。インターホンを押しても反応がないんですが、扉は開いていて、一戸建ての一軒家はめっぽう散らかっています。中には、認知症の幸枝というおばあちゃんが1人。おばあちゃんを介護し、一軒家を片付け始めます。2階を片付けようとしているとき、カリカリとどこからか壁をひっかくような音が。2階の部屋に入ると、押し入れの扉が、ガムテープで厳重に閉められており、中には少年が1人、閉じ込められていました。
怪しすぎますね。この時点で、介護ボランティアの女性は、既に呪いにかけられていたのだと思います。だって少年は既に死んでいるのですから。
この物語には、たくさんのキャラクターが現れます。この認知症のおばあちゃんの息子夫婦や、その妹、他には、この家に勝手に忍び込んでしまった女子高校生たち。全員に共通することといえば、全員が軒並み死んでしまうということです。オーバーキルです。もはや無事だった人間を数えるほうが早いほど、ほとんどの人間が死にます。しかもいやーなところは、即死というわけではなく、時間差攻撃ということ。家に入った人間の呪いが、別の人間に呪いを増殖させて、じわじわと時間差で殺していく。
この家の呪いの正体は、1つの家族から始まりました。佐伯剛雄、佐伯伽椰子、佐伯俊雄、そして佐伯家で飼われている猫。3人と1匹から、この呪いは始まりました。伽椰子と俊雄は、父である佐伯剛雄に殺されたのです。なんと伽椰子が殺されたとき、28歳。私と同い年でした。私もこんな年齢になってしまうとは。私と同じような歳の人間が、こんなにもオーバーキルをしたくなるほど、怨念が詰まっていたんですね。あとめちゃくちゃ怖いのは、『呪怨』ってもう後半は、怨念で憎いから、とかじゃなくてもうなんか、正しさも理由もなく、ただ殺す、っていう印象が強くて、もう「死」そのものが体全部で突撃してくるみたいな恐怖があるんですよね。
基本的には、家に直接触れた者。つまりは家に直接上がった者、入った者、が死んでしまうものなのですが、間接的に家に関わった人間に関わる者も、その呪いの影響は広がっています。冒頭の介護ボランティアの女性。その女性の友達も、その呪いに取り込まれて死んでしまいます。彼女と違い、家には上がっていないのに。この呪いが、どれほど強力で、どれほど強烈で、逃げられないものなのかを色濃く鮮明に表しています。

その逃げられないという恐怖が、子供の頃、めちゃくちゃ怖かった覚えがあります。だって家に関わっていない当事者ではない人間も死んでしまうんですから。多分、人生で初めて死ぬということを考えたのが、そのときだったような気がするのです。そう考えると、私にとってこの作品はとても大きな作品だと思います。
この映画のあるシーンで、同様に、この家の呪いに飲み込まれてしまった女性が、怖がりながら布団にかぶって震えています。すると、突然布団が膨らみ始めて、中からぐっと自分を引き込もうとする力に驚きます。恐る恐る布団を開けてみると、中から家の呪いの正体、伽椰子が布団の中に現れ、女性を布団の中に引き込んでしまうのです。大人になってそれを観てみると、「そんなわけないやろ」と思ってしまうものですが、あの頃の私にとって、何もないところから知らない女性が出てくるというのは、本当に本当に恐怖だった覚えがあります。
『呪怨』を観た後、それ以降、いろんなところにいろんな恐怖が待ち構えているのかと思い、しばらくお風呂に1人で入れなかった覚えがあるのです。お風呂に1人で入ったら、きっとあの女が出てくる。見かねた兄が一緒にお風呂に入ってくれたのですが、一緒にお風呂に入ったからといって、兄に一体何ができるんだろうかとも思っていたので、全然恐怖が衰えませんでした。永遠に風呂に入りながらギャン泣きをしていました。
兄が伽椰子と戦って、一体何ができるんだと。兄VS伽椰子。勝てるわけがないじゃないかって。
幽霊っているんでしょうか? 私は実は、こんなにもホラーが好きなのに、こんなにも死の大ファンなのに、まだそういう幽霊のようなものや、非科学的な現象に一度も遭遇していないのです。いつか会いたいとは思うのですが、まだ一度も会ったことがありません。不思議な体験も、死んだ人にも、一度も会えていない。死にたいと思うこともたくさんあって、何か不可逆的なものが訪れてほしいと何度も思ったことがあります。同様に、奇跡のようなもの、神様のようなものが私の目の前に現れてほしいとも何度も思いました。

でも、私はホラー映画を観れば観るほど思うのです。
幽霊なんていない。奇跡もない。そこにあるのは創作だけ。
死ぬということに「刺激」を組み合わせてアレンジし、こねくり回し、創作をした。それが形になっているだけ。
創作は創作という枠組みを超えることはできない私には、人を救いたいと考えて作った曲がいくつかあります。それは結局、創作でしかない。本当の奇跡がないように、創作で人を救うことはできない。
創作は、創作という枠組みを超えることはできない。人に感情や感覚を与えるだけ。でも、きっと冒涜なんかではない。死を創作にすることが冒涜ではないように、人を救いたいという感情を創作にしたって。
幽霊はいない。奇跡もない。でも、創作はあります。そして、それを受け取る誰かがいます。
『呪怨』という映画は、私の心に深く刻まれました。伽椰子も俊雄も、実在しません。でも、あの映画が与えた恐怖は、確かに実在しました。私の人生を変えました。死について考えるきっかけを与えました。私が人生で初めて死ぬということを考えたのは、あの映画を観たときでした。あのとき感じたリアリティーは、私の創作に深く結びついています。
それくらい、映画というのは私にとって大きなものなんです。
創作は、現実ではありません。でも、現実に影響を与えます。自分が音楽を作り始めたのは、誰かを救おうと思ったからではありません。ただ、自分が生きるために作りました。でも結果的に、自分の曲に救われたという人がいました。それは、自分にとって予想外のことでした。
創作は、作り手の意図を超えて、受け手の中で新しい意味を持ちます。自分が込めたメッセージとは違う解釈をされることもあります。でも、それでいいのです。むしろ、それが創作の力だと思います。
死が頭にこびりついているなら、それを歌にします。生きることの意味がわからないなら、それを小説にします。幽霊に出会えないなら、ならば、自分が誰かの心に現れる幽霊になればいい。
どうか呪いであり、救いでもある様な創作を。
露天風呂で足が凍えるとき、私は死を思います。でも同時に、生きていることも感じます。その感覚を、これからも作品にしていきたい。それが、私にできる唯一のことなのかもしれません。






















