レオス・カラックスはアレックスそのもの “美しき失敗作”『ポンヌフの恋人』が示す真実

美しき失敗作『ポンヌフの恋人』が示す真実

 とはいえ、同様に映画の完成度を求めて蕩尽をきわめた、『地獄の黙示録』(1979年)や『天国の門』(1980年)がそうだったように、フィルムメイカーとしての執念が、作品に何やら怨念のようなものを発生させていることを感じる観客も少なくないのではないか。その点で、この“美しき失敗作”が、唯一無二の映像表現を獲得し、強い輝きを放ってもいることに思いを馳せざるを得ないのだ。そして、それを証明しているのが、この作品へのカルト的な人気なのである。

 不穏なのは、レオス・カラックスの不安定な内面だ。出演者のジュリエット・ビノシュとは交際関係にあったが、撮影期間中に破局を迎えていたというゴシップは、本作のただならぬ荒廃した雰囲気とも合致する。火花のなかで楽しむ水上スキーの撮影においては、ビノシュが溺れかけるという危険な出来事もあり、そんなカラックスの態度は批判の的ともなった。こういった彼の精神性が、独善的な振る舞いを続けて破滅へと向かおうとするアレックスの姿とも重なってしまうのである。一方で、この不安定さを取り繕わずに、そのまま作品というかたちで表出させてしまう不用意さは、彼の若さゆえの蛮勇でもあり、またプライベートで歩んだ道そのものを表現しようというライブ性は、“映画界のロックスター”としての本懐でもあったのだと考えられる。

 その孤独で病的な世界観は、お仕着せの商業主義作品に溢れかえっていた時代に、反逆的な作家性を発揮する表現者たちが登場していった1990年代の空気を決定づけるものであったのかもしれない。しかし同時にそういった取り組みは、“時代の徒花”のような性質も備えることとなった。とくに近年、多様性や女性差別撤廃の動きが顕在化している映画界にとって、本作のように女性の主体性をないがしろにしているような描写は敬遠されるのが当然だ。孤独な魂を描くとは言いながらも、ここで主張される“愛”は、相手を縛りつけ、可能性を奪うことと同義だからである。

 また、物語の終幕があっけなく軽やかなものになっているのも、違和感をおぼえさせる部分だ。当初は悲劇的にしようとした結末を、ジュリエット・ビノシュの説得によって明るいものにしたという経緯が伝えられているが、ここで希望を描いてしまったために、アレックスの執着や暴力性といった要素に妥当な見解を与えることができなかった。これが、本作の印象をひどくいびつなものにしている原因である。

 しかし一方で、本作を直接的な恋愛映画としてではなく、“ある寓話”や、象徴的な“社会風刺”として捉える見方もあるのではないか。そこで注目したいのが、瀕死のアレックスが運ばれた収容施設での光景である。映し出されるのは、パリで困窮し、体に不調がありながらも十分な治療を受けられない、現実の人々である。彼らに報酬を与え、フィルムに収めることで、この映画は一部ドキュメンタリーの性質を持つこととなった。革命200年の華やいだ喧騒は、そんな解決せざる困窮を遠ざけながら、本来の精神を失ったまま空虚に響いている。

 フランス革命以前から存在した歴史あるポンヌフの上で踊るアレックスとミシェルは、くたびれた大道芸人と視力を失いつつある画家の男女だ。絶望の果てに都市のポケットにたどり着いた二人は、貧困のなかにあることでむしろパリの失った純粋性や、金銭を目的としない芸術的精神を体現しているように感じられる。『あなたの目になりたい』(1943年)や、『天井桟敷の人々』(1945年)、のちに『王と鳥』として作り直された『やぶにらみの暴君』(1952年)などで描かれた、世俗や圧力のなかで光る自由な魂がそうであったように。そして貧困者の犯罪を同情的に描いている点は、ブレヒトの戯曲『三文オペラ』を想起させもする。

 それだけでなく、本作のアプローチは、映画運動「ヌーヴェルヴァーグ」からの連続性も備えている。花火の光の中で踊り、どこから現れたのかも謎な水上スキーを楽しむといった、“持たざる者たち”が、あたかもパリの中心であるかのように振る舞う、魔法のような瞬間。それは、ジャン=リュック・ゴダール監督の『はなればなれに』(1964年)において、若者たちがルーブル美術館を走り抜けていく傍若無人な振る舞いに重ねることができる。はたまた、『北の橋』(1981年)においてパリの街の意味性を創造力で塗り替えていこうとする、自由な手つきにも似ている。

 であれば、物議を醸したラストの展開は、夭折の天才監督ジャン・ヴィゴの『アタラント号』(1933年)における、船上の幸せなカップルを祝福する展開とショットと、映画的記憶に重ねられているのだろう。本作では、それがセーヌから眺めるパリの光景とともに映し出されるのだ。

 このように、レオス・カラックスが影響を受けてきただろう、フランスの芸術家たちの文化の集大成を、このとき、この場所で表現したかったのだと考えると、セーヌの流れの上で若く貧しい芸術家が出会うという趣向が、レオス・カラックス本人が憧れ、芸術の都・パリの伝説の一部になろうとするための試みであったことを、クリアに理解することができる。

 ここで、当初軽やかであろうとした『ポンヌフの恋人』は、歴史的な重みを持つことを必然的に選ばされてしまったように思える。その“重さ”を表現するために、アレックスが大金をセーヌの流れに沈めた描写のように、莫大な製作費をぶち込んだのではないだろうか。その刹那的で破滅的な精神にこそ、パリの芸術の神秘がある。

 ビノシュとの破局や、興行的失敗へと自然に導かれる破滅願望によって、レオス・カラックスは多くの代償を払うこととなった。若き天才と謳われながら、その後8年間のあいだ新作を撮ることができなかったのだ。しかし、本作で発揮した蛮勇は、それがある意味でばかげていたからこそ、紛れもなくフランスの芸術史の伝説の一端になったのではないのか。真の芸術家には、こうであってほしい。その憧れや期待がアレックスという純粋な存在へと投影され、カラックス自身もいつしかその破滅を受け入れ、自身の鏡であるアレックスそのものとなった。それが、本作『ポンヌフの恋人』が示す真実である。

■公開情報
『ポンヌフの恋人』4Kリマスター版
ユーロスペースほかにて公開中
出演:ジュリエット・ビノシュ、ドニ・ラヴァン
監督・脚本:レオス・カラックス
撮影:ジャン=イヴ・エスコフィエ
配給:ユーロスペース
1991年/フランス映画/カラー/125分/DCP
©1991 STUDIOCANAL - France 2 Cinéma

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