『ヤンヤン 夏の想い出』はなぜ映画史に残る名作なのか 4K版で味わう“余白”の醍醐味

 多くの場合、語るべき物語があってそれを具現化していく過程で生じる“余白”にある種のカタルシスが見出され、それが映画を映画たらしめる。しかしエドワード・ヤンの映画の場合は、あらかじめ用意された大きな余白の上を人物が動き、物語が語られていくことでやんわりとかたちづくられていく。そのため余白自体が非常に精密に計算された崇高な見せ物となり、必ずしも白一色ではなくさまざまな色を持ち合わせている。

 考えれば考えるほどに、エドワード・ヤンという作家は不思議である。いうまでもなく優れた監督であるのだが、59歳という若さでこの世を去り、およそ20年にも満たない監督キャリアで手掛けたのは7本の長編映画と数本の短編のみ。裏を返せば、一度も凡作をつくることなく逝ってしまったからこそシネフィリックに神格化されているのかもしれないが、残された観客である我々は当然のようにこの作家のことをよく知る術がない。かろうじて彼の作品群を観ることで、エドワード・ヤンが何を考え、何を見つめていたのかを推測するほかないのである。

 その限られた作品群のなかで最もエドワード・ヤンに近付けそうな作品は、遺作となった『ヤンヤン 夏の想い出』であろう。タイトルとポスターだけを見れば、それこそエドワード・ヤンが父親役として出演していたホウ・シャオシェンの『冬冬の夏休み』のようなオーソドックスな児童映画を想起させられるのだが、まるで異なる(実際それを思って横浜の小さな映画館に観に行った当時11歳の筆者は拍子抜けをくらったものだ)。

 たしかにヤンヤンという名の幼い少年が登場するが、驚くほどにその出番は少なく、彼の視点――すなわち地上から120cm前後の高さから世界を見ているわけでもない。祖母が倒れたことがきっかけで日常が小さく動く中流家庭の様子とでもいうべきだろうか。かつての恋人と再会した父親、宗教に傾倒して家を出てしまう母親、友人である隣人の彼氏と恋仲になる姉。彼ら家族の物語と2000年の台北の情景が、それこそ彼らが暮らす都会的な中流階級向けマンションの中層階のベランダと同じ地上2〜30mぐらいの高さから俯瞰するように描かれていく。

 肝心のヤンヤンはといえば、もらったカメラで思い思いのものを撮影し続ける。その伸び伸びとした自由さは、いかにも子どもらしい。過去を振り返り、現在に行き詰まる家族たちのなかで、ヤンヤンだけは未来に進む以外の道がまだ用意されていない。だから彼はカメラという記録媒体を用いてあえて立ち止まることを選び、現像した時には過去となっているものたちと向き合っているのかもしれない。そう考えると、それはそれで子どもの不自由さが表れているようにも思える。

 またヤンヤンは、人物の後ろ姿を撮影することに熱中する。そこからは、彼がまだ幼く、誰かを追いかける側の人間であることが示唆されているようにも捉えられる。対照的に高校生の姉を含めた大人たちは、とうに誰かを追いかける側ではなくなり、隣に並んで歩いたり、正面から向き合うことが正解とされるコミュニケーションのなかにいる。

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