『星と月は天の穴』は女性たちの人生の物語 綾野剛だから成立した色気のある滑稽さ

映画『星と月は天の穴』が12月19日より公開された。芸術選奨文部大臣受賞作品である吉行淳之介の同名小説(講談社文芸文庫)を原作とした、『Wの悲劇』『ヴァイブレータ』の脚本家であり、『火口のふたり』『花腐し』と監督作品が続く荒井晴彦の新作である。
1969年を舞台に、結婚に失敗した経験から、女性との深い関係を避けてきた小説家・矢添の日常が揺れ動く様を描く。主人公である、小説家の矢添克二を演じるのは『花腐し』に続いての監督とのタッグとなる綾野剛。取り巻く女性たちも魅力的で、大学生の紀子を演じる咲耶は、年の離れた矢添と対峙しても一切引けを取らない強靭な意志をその眼差しに込め、奇妙な形で始まる2人の恋愛を対等なものとして描くのに一役買っている。また、矢添のなじみの娼婦・千枝子を演じる田中麗奈の、ブランコを一漕ぎするごとに矢添への思いと、彼女が生きてきたこれまでの人生の厚みを感じさせつつ「これから」をも予感させる佇まいは、本作が描く女性像により一層の多層性を与えている。

本作の何が面白いかと言うと、綾野剛が、妻が出て行った過去をいつまでも引きずり、あるコンプレックスを抱えている40過ぎの男を演じているということだ。「娼婦を買う」ことを「道具はやはり使い慣れたものがいい」などと言い、女性との曖昧な関係のことを「雄犬と雌犬の関係」と言う彼は、女性と深く関わり合うことを避けることで、自分を常に安全地帯に置こうとしている。自宅にはどうしても女性を入れたくないし、急に来られたらある「秘密」を知られたくなくて慌てて支度しなければならない。さらに、近所の公園のブランコを部屋の窓から覗いては、かつて男と出て行った妻が漕いでいたブランコのことを思い出し、公園に実際に足を踏み入れることすらできないのである。

そんなふうに、自分が手に入れることができない男女間における「濃密な人間関係」を憎悪しつつ、でもどこかで強い憧れを抱いていて、そんな「精神的な愛の可能性」を探るべく、自分と同じ年の男Aを主人公にした小説を書いている。そのように、表ではたっぷりと大人の色気を漂わせつつ、その裏でなんだかジタバタしている、滑稽で、彼が演じるからこそチャーミングな男性を、綾野が演じている。

興味深いのは、その描き方だ。まず本作は、同じ綾野剛という演者を軸に、矢添の物語と、矢添が書いている小説の主人公「A」の物語を同時進行で描いていく。なおかつ後者は、矢添/Aによるモノローグとともに、小説の文章そのものを画面上に映し出すという形で「それが小説であること」を強調する。それによって観客は、映画を通して矢添が書く小説そのもの、並びに吉行淳之介の文体そのものの美しさを味わうことができる。さらに、矢添の物語と「A」の物語は、各々独立したものとして存在するのでなく、それぞれに影響を及ぼし合っているのだということ。なぜなら矢添は自身の書く小説を通して「精神的な愛の可能性を探る」という実験をしているために、その思索は現実世界に多少なりとも影響を及ぼしているだろうし、小説もまた、書き手である矢添の身に起こる出来事や、彼の心の変容を反映することで成り立っているからだ。




















