『ワン・バトル・アフター・アナザー』の圧倒的な映画体験 その巨大な魅力を多角的に考察

興味深いのは、そんな極度に戯画化され知性の欠如した権力が、現在のアメリカの政治状況そのものに見えてくるところだ。「サンクチュアリ・シティ」とされる都市に逃げ込んだにもかかわらず攻撃を受ける主人公や移民たちの状況は、実際にいまドナルド・トランプ大統領が移民の大規模な強制送還をおこなうため、州兵と海兵隊をカリフォルニアに動員し、“移民狩り”といえる強制捜査を実行している構図に酷似している。本作が示唆するのは、そういった“不法”の取り締まりの背景に、差別や偏見が根ざしていないか、ということなのだ。
この符合は単なる偶然の一致とは言えないかもしれない。国家の純粋性を守るという幻想を、素朴な不安をおぼえる中間層に売り込むというプロセスにより、制度的な監視体制によって不法移民を取り締まったレーガンの時代をピンチョンが戯画化したように、この種の強制捜査は、絶えず予見されていた恐怖であり不安だった。だからピンチョンの風刺が、本作によって現在でも有効なものとなったのは、偶然であって偶然ではないといえるのである。こうした構図は、現在の日本の政治、社会状況とも非常に近いといえる。
興味深いのは、ロックジョーが白人至上主義者でありながら、本人が口に出すように、黒人女性に性的に惹きつけられ異常なほどに執着しているという点。そんな彼の指向は、クラブのなかでも問題視される。そういった彼の心理を作り出す原因には、2つの可能性が考えられる。それが、「認知的不協和」などと呼ばれる状態だ。保守的な政治理念を持つ人々のなかにもさまざまな人々が存在することは当然のことである。そうした感情やマイノリティ性が、自分の信条と心とを乖離させ、矛盾を引き起こす。だから自分の自然な欲求を隠さざるを得なくなる。
もう一つは、歪んだ「人種的フェティシズム」を持っている可能性。これは、相手を個人としてというより、人種という属性に大きな意味を見出す感情を指す。人種的なマジョリティによるそうした見方は、しばしば植民地主義や帝国主義のルーツとも重なり、性的魅力を“異人種の征服”として扱おうとする問題をはらむ。ロックジョーの場合は、さらにここに倒錯したマゾヒズムが絡んでいる。
Netflix配信のアニメシリーズ『FはFamilyのF』では、ベトナム戦争帰りの男がベトナム出身の女性を妻として、日々虐待しているという描写があったが、このような関係性が、まさに植民地主義を背景にした「人種的フェティシズム」の代表例だといえよう。実際に当時のアメリカでは、戦地へ行った兵士と結婚するベトナムの女性を「戦争花嫁」と呼ばれたが、彼女たちが家庭内で虐待されるケースが少なくなかったことが社会的な問題になったとされている。
ロックジョーが矛盾に満ちていて卑怯な人物であることがはっきりと分かるのは、先住民の賞金稼ぎであるアヴァンティQ(エリック・シュヴァイク)という人物に、自分がやりたくない汚れ仕事を押し付けるところだ。白人の差別的な純血主義者が黒人女性を執拗に追いかけ、アメリカ先住民の力を借りようとする。マイノリティから実際に利益を得ながら同時に弾圧にまわる行動は、現実のアメリカ社会の姿なのではないか。
このような前時代的な価値観、偏執的な欲望、不当な搾取というものが、権力や社会的影響力を背景に、アメリカという国に暗い影を落としてきた。悪に手を染めることを強制されるアヴァンティQ、そしてウィラのように、現在のアメリカ社会における人種的マイノリティや若い世代がそういった邪悪さの被害に遭ってきたこと、そして現在もまさにそのようなことがおこなわれているというアメリカの本質を、本作はノンストップの追跡劇、逃亡劇を通して描くのである。
そして、なんといっても注目したいのは、アップダウンを繰り返す砂漠の道を進む、クライマックスのカーチェイスシーンだ。スティーヴン・スピルバーグが本作を絶賛したことが話題となったが、まさにここはスピルバーグ監督の初期作『激突!』(1971年)を思い出す箇所。撮影に使われた印象的なアップダウンの道は、美術監督のフロレンシア・マーティンらが、カリフォルニアのボレゴ・スプリングスに向かう際に見つけたものであるようだ。あっと驚くようなクライマックスのアクションは、こうした偶然の出会いによって生まれたものだったのだ。
この砂漠のイメージは、『砂丘』(1970年)や、『バニシング・ポイント』(1971年)を想起させ、70年代のヴィンテージな雰囲気が漂うところが心地よく、本作で使用された高精細なビスタビジョン撮影によるフィルムの質感とも最高に相性がいい。カリフォルニア州とテキサス州のさまざまな都市や場所でロケ撮影をおこなったという本作は、メキシコ国境沿いの法律が曖昧な地域を舞台としたオーソン・ウェルズの『黒い罠』(1958年)ともリンクを見せ、画期的な撮影による名作としての風格が、両作品に共通しているようにさえ感じられるのだ。
本作はラストシーンまで味わい深い。中年になって敗残者として描かれているボブは、爆弾魔だった青春時代の残滓を懐かしく感じながらも、あの頃は若気の至りだった、いまは成長した娘もいるのに軽率だった、あんなことするべきじゃなかった……というようなネガティブな感情に支配されているように見える。しかし、娘が新たなやり方でボブの意志を受け継ぎ、圧政や排外主義と戦おうとする姿を見ることで、あのときの情熱は無駄じゃなかったかもしれないと思えるような、精神的な救いが訪れるのである。
対して、不幸な結果に終わるのがロックジョーだ。彼は内面の声に反してまで、権威や社会的地位によって自身を確立しようとした。自分の運命や存在意義、価値観を委ねたことで、より力のある者に裏切られることとなるのだ。権威の力を自身の力だとして、差別意識や欲得から残忍な行為をしていた人物が、また差別意識や計算によって酷薄に切られる構図である。
「ワン・バトル・アフター・アナザー」というタイトルの意味は、「戦いに次ぐ戦い」。その名の通り本作は、対立する者たちの激しい逃亡劇と追跡劇がノンストップで描かれていく。同時にそれは、アメリカ史のなかで社会が何度も前進と後退を繰り返し、揺り戻しが起こり続けていることも指している。だからこそボブの身には呪いのように、戦いが襲ってくるのだ。しかし、そんな不安や恐怖とは逆に、新たな世代が理想を追いかける姿が希望として描かれることで、「戦いに次ぐ戦い」という言葉が、圧政に反発する人々にとっての、勇気を与える言葉に反転するのである。その瞬間こそが、いまの現実へと繋がる、本作最大のカタルシスなのだ。
■公開情報
『ワン・バトル・アフター・アナザー』
全国公開中
IMAX、Dolby Cinema同時公開
出演:レオナルド・ディカプリオ、ショーン・ペン、ベニチオ・デル・トロ、レジーナ・ホール、テヤナ・テイラー、チェイス・インフィニティ
監督・脚本:ポール・トーマス・アンダーソン
撮影:マイケル・バウマン、ポール・トーマス・アンダーソン
衣装:コリーン・アトウッド
音楽:ジョニー・グリーンウッド
配給:ワーナー・ブラザース映画
©2025 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED.
IMAX® is a registered trademark of IMAX Corporation.
Dolby Cinema® is a registered trademark of Dolby Laboratories
公式サイト:obaa-movie.jp

























