『ばけばけ』は“攻めすぎた”朝ドラ? 髙石あかりの“瞳の変化”を見るだけでも価値がある

怪談『耳なし芳一』からはじまった朝ドラことNHK連続テレビ小説『ばけばけ』。第1週は「ブシムスメ、ウラメシ。」(演出:村橋直樹)で、このサブタイトルは、外国人特有の英語の文法で日本語を語るもの。外国人の日本語がカタコトでたどたどしく感じるのは、英語の文法、主語・動詞・目的語の順番に置き換えているからのようだ。日本人による慣れない英語もそんなふうに不自然なのだろう。
ヘブン(トミー・バストウ)がトキ(髙石あかり)に日本に古くから伝わる怪談を教わって、それを記録し本を出し、人気を博した。『ばけばけ』の英語タイトルの『THE GHOST WRITER’S WIFE』は幽霊のことを書く作家の妻という意味と、妻が実質的にゴーストライターだったという意味の、ダブルミーニングになっている。つまり後者だと「奥様はゴーストライター」。これってちょっと興味深い。

前作『あんぱん』に次いで著名人の妻が主人公で、夫の働き、あるいは世間的認知度に比べると妻は支える側、いわゆる内助の功という役割と見られがちではある。だが決してそうではないことを、とりわけ『ばけばけ』ではこの英語タイトルでうっすら主張しているように思える。
史実のラフカディオ・ハーンこと小泉八雲と妻セツとの関係がどうであったかはわからないが、少なくともドラマのなかでは、トキの怪談に対する感性と知っている分量、口伝の技術がヘブンの執筆意欲と書いたもののクオリティを底上げしたということであると感じられるタイトルやオープニングだった。優れた作家には優れたデータマン(取材して資料を集める人)が必要ということだ。
第1話の冒頭で、未来の夫婦の姿を描いたあと、時代は明治8年に遡り、トキがまだ幼い頃で、福地美晴が愛らしく演じた。明治維新で武士の時代が終わり、途方に暮れている松野一家。父・司之介(岡部たかし)がウサギバブルで失敗して大きな借金を背負ってしまう。城下町から川を隔てた貧しい人々の住む町に引っ越すことを余儀なくされる。
第5話で「おなごが生きていくには身を売るか、男と一緒になるしかない」と遊女のなみ(さとうほなみ)が言い、トキは婿をとることを決意する。「身を売るか、男と一緒になるしかない」二択に意義を唱えないことに、立ち上がれ、声をあげろと意義を唱えたい視聴者も早くもいるようだが、この時代にそういう先進的な女性もいたかもしれないが、そこまで思いもしない人もいる。歴史を遡って、その人たち全員にそれ以外の選択があると伝えて、奮起させ、時代を変革させていったら、未来はどんなふうに変わるだろう。

まずは、身を売るか、男と一緒になるしかなかった女性たちの心情を受け止めてみたい。セツが外国人の妻となる選択をしなかったら、怪談はここまで世界的な文学として残らなかったかもしれない。と思えば、セツをモデルにしたトキのこの世界への貢献度は実に高い。
予告編で使用されている「怪談とはこわいだけじゃなく、さみしいもののよう」と言うセリフ。この世をうらめしく呪っていった人たちがいたことを伝承する物語。何もできないが、せめて呪い、せめてその無念を引き継いでいく。それが鎮魂。鎮魂あっての変革。
ハンバート ハンバートの主題歌「笑ったり転んだり」は〈日に日に世界が悪くなる〉とか〈毎日難儀なことばかり〉とか恨み節、ぼやき節。それでもなんとかなりそうというしょんぼりと楽観がないまぜな歌だ。
最初は、朝か夕暮れの川べりをとぼとぼ歩く、70年代の四畳半フォークみたいだなあと思って聴いていたが、もともとハンバート ハンバートを好きな筆者は、数日聴いたら、すっかりハマってしまい、日に日に世界が悪くなる、うんうん、毎日難儀なことばかり、うんうん、と共感し、そういうものだと自分を鎮魂してしまったじゃないか。これでいいのか! 前半、そういうものだと受け止めて、立ち上がり声を挙げなくてもいいじゃないかと書いておきながら、そんな自分が心配になってくる。だがしかし、焦ってもどうしようもないし、いまを生きるしかない。まさに松野家と同じである。




















