『8番出口』川村元気監督による映画化のアプローチを紐解く その裏にある“概念”とは

原作に登場した派手な“異変”である赤い水が流れてくるシーンは、本作では『シャイニング』(1980年)のオマージュのように勢いよく流れてくるが、この水は濁流のように濁っていて、流された残骸が散乱する様子は、津波被害を連想させるものがある。こういった具体的な要素の追加は、原作ゲームの持つ抽象性を制限し、解釈の幅を狭めることになってしまう。また、理不尽な回廊の脅威というものが、一種の教訓として提示されてしまうことは、よく言えば“奥行き”として評価されるが、道徳の教科書のような訓話のようだと感じる観客もいるだろう。
しかし、娯楽的な長編映画というフォーマットにおいては、そこまで抽象的なバランスで作劇するわけにはいかないというのが実情だ。原作に近いバランスに映画が終始し、幕が下りてしまえば、娯楽性を求める観客の期待に応えることはできない。そこには、観客の感情移入をうながす何かが必要になるのである。
繰り返される空間の中から脱出しようと彷徨う人々を描いたヴィンチェンゾ・ナタリ監督の『キューブ』(1997年)は、本作の先達といえる、実験性と娯楽性が絶妙なバランスで達成された、優れた映画作品だった。だが、その日本版リメイク作品『CUBE 一度入ったら、最後』(2022年)は、空間の外の人間ドラマを強化するといった選択をしたことで結果的に、典型的なヒューマンドラマとしても、観客をエンジョイさせる娯楽作品としても、アート的な試みとしても、不完全燃焼な内容になってしまったといえる。本作も、この轍を踏む可能性は十分にあった。
本作は、おそらくこういった例も参考にしながら、限定空間の外の人間ドラマを極力絞り、通路の中でのリアクションを主にすることによって、ゲームの内容そのものから離れ過ぎないようにしている努力を感じ取ることができる。そして、ワンシチュエーションの魅力を保ったままで、外の事象の関与を慎重に扱うことで、あくまで暗示にとどめているともいえる。
だから、ストイックな実験映画の要素を感じさせつつ、娯楽性を保ちながら、映画ならではのヒューマンドラマを加えて全体を調和させる、絶妙な着地点に落ちつけているのである。これは、原作ゲームの映画化アプローチとして、一つの優秀な解答例であるといえそうだ。そして映画の内容は、脚本、美術、撮影、編集などにおいて、スタンドプレーとしての突出した試みを、それぞれであえておこなわないことで、当初定めたであろうコンセプトを忠実に守っているように感じられるのである。
そこでは、共同で脚本も書いた川村監督自身のプロデューサーとしての自制心が発揮された箇所だといえるだろう。画面の多くの要素、ストーリーの細かい部分までが“理詰め”と合理的な発想によって、箱庭のようにコントロールされているのである。だが、そういった自制に対し、仕事の確かさ、コンセプトの正しさに感心する一方で、アーティストとしての爆発的な感覚が欠如している点に、いまひとつ物足りなさをおぼえるところもある。
たとえば、デヴィッド・リンチ監督は、TVドラマ『ツイン・ピークス』シリーズで、赤いカーテンに仕切られた無限に続く空間を創造した。そこには、圧倒的に趣味の良いセンスと、変態的ともいえる“異常さ”への偏愛が反映されていた。また、中田秀夫監督が『リング2』(1999年)で病院の廊下を撮ったような、合理的感覚から外れた、不可解だからこそ不気味なカメラワークにも、ぞくぞくとした、一種のアーティスティックな“映画的興奮”が感じられたものだ。
しかし、そのような突出した作家性に欠ける部分があるにせよ、リスクを避けて堅実に各セクションが動き、着実にコンセプトを守りきった点は、マーケティングとして妥当だと言っていい。原作ゲームのクールさや、ループの緊張感をきちんと残し、過剰な要素で崩れるようなことをせず、多くの観客を置き去りにしない、作り手としての誠実さを感じるのである。アートへの広がりや可能性は希薄ながら、オーソドックスでニュートラルに、上手いバランスで恐怖を醸成し、無理なく個人のヒューマニズムに繋げている。
そして、映画の最初と最後に流れ、内容をサンドイッチしているのが、列車のシーンと、モーリス・ラヴェルの名曲「ボレロ」の旋律である。黒澤明監督の『羅生門』(1950年)や、ブライアン・デ・パルマ監督の『ファム・ファタール』(2002年)において、「ボレロ風」の曲をわざわざ作らせて劇伴にしていることを思うと、最近パブリック・ドメインとなった事情がある、この曲が映画で聴けるということに、一種の感慨をおぼえる部分もある。
そして何より、タイアップ楽曲を用意しながらも劇中で使用されていないというのが、没入感が重要となる本作にとっては、非常にプラスに働いているといえる。本作では、主人公が外に出るといった描写がなく、列車内のシーンで幕が下りることになる。このようなラストを選んだのは、本作で描かれた“異変を見つけ決断し行動する”といったルールが、人生においても当てはまるものだからだろう。だからあえて、「迷う男」を地上の出口には到達させないことで、地下鉄の空間そのものを人の生き方のメタファーとして印象づけることができたのである。
「ボレロ」は、印象的な旋律が淡々と繰り返される構成だ。通常の映画音楽だと、盛り上げる装置として観客の感情を煽る方向に持っていかれがちだが、本作では「ボレロ」の冷徹にすら感じられる反復が、まるでゲームのルールそのものを象徴しているように響き、ある意味“ベタ”ともいえるラストカットの瞬間を、甘い印象にさせすぎない効果に落ち着けている。
おそらく多くの観客が思っている以上に、ラストの選曲は、作品の印象を左右しかねない。もちろん、主題歌そのものの出来が映画の内容を超え、作品を助ける場合もあるし、そもそも一部のアイドル映画では、それこそが重要な場合もあるだろう。
しかし、タイアップ曲というものが、いかに多くの日本映画のタイトルのラストにおいて、システマティックに、テンプレートとして使われてきたかということが、本作のような作品を前にすると実感せずにおれない。そして多くの映画監督が、多くの場合そこを自由にはできず、観客もまた、映画を“そういうもの”として、仕組みに疑問を呈することがなくなってきているといえる。こういった映画づくりにおける“異変”もまた、見逃さないようにしたいものだ。
■公開情報
『8番出口』
全国公開中
出演:二宮和也、河内大和、浅沼成、花瀬琴音、小松菜奈
原作:KOTAKE CREATE『8番出口』
監督:川村元気
脚本:平瀬謙太朗、川村元気
音楽:Yasutaka Nakata(CAPSULE)、網守将平
配給:東宝
©2025 映画「8番出口」製作委員会
公式サイト:exit8-movie.toho.co.jp
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