『全裸監督』とは一線を画す 韓国のNetflixオリジナルドラマシリーズ『エマ』の意義深さ

実際の『愛麻夫人』は、そのような作品であるため、現在の基準でいくと、官能映画とはいっても淡白なものだったと判断できる。だが、この作品が当時の韓国で大ヒットを記録し、女性の観客をも集めたというのは、本シリーズでも描かれるように、この時代に官能映画なるものが大っぴらに上映されるという事実への高揚感だったり、鬱屈した大衆の気晴らしのイベントとして機能したからだろう。それはささやかな自由の風であるとともに、全斗煥の「3S政策」の成就ともいえ、複雑な感情が湧き上がってくる。
本シリーズで最もおそろしいのが、映画製作自体とは何の関係もない「大宴会」の場面である。定期的に開催される、この乱痴気騒ぎに映画会社が専属の女優たちを送り出すのだ。女優たちは権力者たちの宴会で“お酌”をさせられ、気軽に身体を触られる。いまでは国際的な賞を受賞した大女優ヒランも、例外とはならない。その後ベッドに誘われても、断れるような雰囲気ではないのである。
これは、女優たちにとって人権を剥奪される屈辱であり、権力者による犯罪的行為といっていいだろう。そしてVIP席に座っているのが、驚くことに最高権力者である全斗煥(キム・ジュンベ)その人なのである。彼は、初対面で年若いシン・ジュエに、自分の指でグラスの中身をかき回して水割りを作って飲ませるなど、“キモ”ムーブでジュエの背筋を凍りつかせる。
韓国では民主化後、女性たちの人権を権力者たちが踏みにじるような行為をしていたことが、断片的に告発されてきた。全斗煥自身が本シリーズのような行為をやっていたかどうかは分からないが、少なくとも黙認していたことは確実であり、本シリーズは象徴的な描写として、このシーンを作り出したのだろう。感心するのは、いまの価値観において全斗煥は民主主義の敵だとされているとはいえ、自国のエンタメ業界が、そんな犯罪行為に手を貸していたことを、しっかり罪として描いているということである。
会社が所属する女性たちを、このような集まりに斡旋したり、大宴会を仕切るマダム(キム・ソニョン)が脅しの言葉で事前に恐怖感を植え付けて萎縮させたりする経緯は、いま日本で週刊誌などが報じ、同様の事例が問題視され責任を問われている事態を想起せざるを得ない。こういった娯楽産業の裏に潜む闇に光をあて改善していくことはもちろんとして、日本の作品においても、そうした業界の事例をはっきりと罪として描く必要性があるのだと、強く思う。
まだ新人のジュエが、そんな会に出席することや、プライドの高いヒランが権力者の求めに応じる様子は、あまりに悲痛なものだ。そして同時に、ライバル関係だったはずのヒランが、なんとかジュエを助けようと立ち回る姿にも胸を打たれる。
そこまでしてヒランが映画の世界にしがみつく理由は、彼女の映画作品に情熱を注ぐ姿によって明らかになる。ヒランは、脚本に納得できなければ、そのシーンを演じることを拒否する。ジュエは当初それを大女優ゆえの傲慢だと受け取り、「映画はただの“飯のタネ”ですか」と侮辱してしまう。しかし、実際にはその逆だった。
ヒランは脆弱だったり矛盾した脚本で役を演じることが、作品のためにならないことを経験上知っていたのである。プロフェッショナルであろうとするからこそ、彼女はそこに口を挟む。監督のイヌと一緒に、テーマを際立たせリアリティを高めるために、突破口を見出そうと脚本の問題について議論する姿は、ヒランの映画への愛をひしひしと感じる美しいシーンだ。
この時代に女優であることで、プライドを破壊され、人権を剥奪され、肌を見せることを求められ、あらゆる辛酸をなめざるを得なかったヒラン。そして、そんな彼女の情熱を受け継いで次の時代に踏み出し、変わらぬ好奇の目のなかで厳しい戦いを継続していくジュエ。そんな二人の俳優の“時代”との戦いを描いた本シリーズ『エマ』は、多くの映画を愛する者に、そして女性たちの戦いに胸を熱くしたい視聴者たちに、ぜひ観てほしい、傑出したドラマ作品である。
■配信情報
『エマ』
Netflixにて独占配信中
Cho Wonjin/Netflix © 2025 Netflix, Inc.
























