『ひとりでしにたい』が肯定してくれた“究極のエゴ” 家父長制の呪縛から抜け出すために

「人の目を気にすれば、人と比べる。比べてしまったら、妬みが生まれる。そして妬みは攻撃になって、取り返しのつかない絆の断絶を生み、結果的に孤立する」
周囲に対するリスペクト不足はのちに自分の首を絞める。少々打算的だけど、自分が将来困った時のためにも、日頃から他者に敬意を払って、素直に頼れる人を少しでも増やしておいた方がいい。じゃあ、なぜ光子がそうできなかったかと言えば、いわゆる“女の幸せ”を手に入れた雅子に対して羨ましいという気持ちが少なからずあったからではないだろうか。逆に雅子が光子のマウントをただの妬みとして勝ち誇るのではなく、仕返しという形を取ったのは、キャリアウーマンでいつも美しい光子が眩しかったからだろう。鳴海がハイスペ年下男子の那須田に好かれていると知った義妹・まゆ(恒松祐里)が「そんなのないから」と必死に否定したのも、どこかで自分の生き方に迷いがあるからかもしれない。

しかし、独身女性VS既婚女性、産む女性VS産まない女性、専業主婦VS兼業主婦といった対立が生じる原因は家父長制にあると、本作は暗に示していた。雅子が短大卒業後に就職した会社でどうせ腰掛けだろうと思われ、まともな仕事をさせてもらえなかったと語っていたが、同時代を生きた光子もきっと同じ扱いをされたことだろう。それで仕方なく結婚したら、和夫(國村隼)のように夫が家庭に無関心で、ほぼワンオペで家事育児をやらされる。その不満が自分とは違う道を進んだ女性への攻撃に向かい、結局は対立を生むのである。
最終回における弟・聡(小関裕太)の、子供を産まない女性は無価値とでも言いたげな論説もまた家父長制の産物だ。ひとりで生きていくのであれば、そういう世間からの“舐められ”と一生戦わなくてはならない。鳴海の目の前にいるのは、自分に好意を寄せるハイスペ年下イケメンの那須田。かつ先進的なジェンダー観を持ち、趣味を放置してくれて、肉体的な繋がりは求めず、名ばかりの彼氏で構わないという。これほど鳴海にとって都合の良い相手はいない。もし那須田が彼氏だったら、鳴海は世間から舐められることはないだろう。だが、鳴海は那須田をふり、「ひとりで生きて、ひとりでしにたい」という思いを強くする。その背中を押したのは、光子の生前の生き様だ。

ラストで鳴海と光子が笑顔で向き合うシーンに思わずグッときて、目頭が熱くなった。もう一度、言う。「ひとりで生きて、ひとりでしにたい」は究極のエゴだ。でも、このドラマはそのエゴを肯定してくれた。現代よりも遥かに独身女性への風当たりが強かった時代に自分らしさを貫いた光子の生き様が鳴海に力を与えたように、わがままな生き方が自ずと後進の道を作る。だから、誇ればいい。とりあえずは「孤独や不安が、私をバカにしていく」を標語にして飾り、タトゥーシールを袖の下に忍ばせたいと思う。
■配信情報
土曜ドラマ『ひとりでしにたい』(全6回)
NHKオンデマンド、NHK+にて配信中
出演:綾瀬はるか、佐野勇斗、山口紗弥加、小関裕太、恒松祐里、満島真之介、國村隼、松坂慶子
原作:カレー沢薫『ひとりでしにたい』
脚本:大森美香
音楽:パスカルズ
主題歌:椎名林檎「芒に月」
制作統括:高城朝子(テレビマンユニオン)、尾崎裕和(NHK)
演出:石井永二、熊坂出、小林直希(テレビマンユニオン)
写真提供=NHK






















