『べらぼう』はなぜ現代と“繋がる”のか 森下佳子脚本の根幹を成す“死者と生者の連帯”

『べらぼう』はなぜ現代と“繋がる”のか

 〈西行は 花の下にて死なんとか 雲助袖の 下にて死にたし〉とは、NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第25回で、田沼意知(宮沢氷魚)が誰袖(福原遥)に詠んだ狂歌だ。

 花雲助と名乗る意知(宮沢氷魚)と誰袖が初めて出会った時(第21回)に、誰袖が、ひと目で恋に落ちた意知のみを見つめながら投げかけたお題「袖に寄する恋」に対して、意知が応える形で詠んだ歌である。

 西行の〈願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃〉を引用したその歌は、その後誰袖の提案を聞いて、戯れに誰袖の「袖の下で死んでみる」意知が、見上げた先の誰袖の美しい顔を見て「望月のようだ」と思わず言う場面とともに、いつまでも心に残る。

 なぜならそれは、2人が夢見て、結局叶わなかった本当の「花見」以上に、幸せな花見の光景だったように思うからだ。西行の歌の「花の下」が彼の歌の「袖の下」にかかり、実際に誰袖の袖の下である彼女の膝に寝転がって空を見上げると、そこには「望月のような」彼女の美しい顔が見える。視界のすべてが愛する人で埋まり、心が満たされた彼は、思わず「まずい、ひどくまずい」と呟く。西行が最期に見たいと望んだ桜と望月の光景とは違い、桜にも望月にも、誰袖の姿を重ねずにはいられなかった彼が、本当に最期に見たいと望んだ美しい光景は、もしかしたら誰袖の姿だったのではないだろうか。そんなことを思わずにいられない。でも彼がいなくなった第28回、「望月」の下にいる彼女は、「2人で彼岸の桜を楽しむ」のだと、彼を殺めた佐野政言(矢本悠馬)を呪いながら、自ら死を望むことしかできない。

 思えば、『べらぼう』第2章の幕開けの回である第17回のサブタイトルは「乱れ咲き往来の桜」であり、すべては桜から始まったのだ。平賀源内(安田顕)の死を描いた第16回、蔦重(横浜流星)が歩く雪景色が印象的だった終盤に雪は紙吹雪に代わり、さらには第17回で桜の花びらに代わる。蔦重は桜を眺めている。そんな彼を驚かせるかのように飛びついてきたのが、第21回の大田南畝(桐谷健太)曰く「桜の化身」のようなかをり改め誰袖で、第17回は福原遥演じる誰袖の初登場回でもあった。それからというもの、様々な桜が咲き乱れた。

 すべての発端の「蝦夷の桜」から、恐怖政治で人々を縛り付ける松前家当主・道廣(えなりかずき)の桜。誰袖と意知が見る恋の桜。さらには佐野政言と父・政豊(吉見一豊)にとって家の繁栄の象徴だった「佐野の桜」。そして、元は佐野が贈った「田沼の桜」。それぞれの恋や夢や欲望を反映した桜のエピソードは、気づけば意知を中心に回っていて、ある意味彼は本当に、「桜の下で死んだ」のだと思った。

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