『ミッキー17』映画化は成功したのか? ポン・ジュノらしさと2つの問題点
残酷な債権者に追われるミッキー・バーンズは地球脱出を図り、「エクスペンダブル」(使い捨て人間)として惑星移住船に乗りこむ。実験対象となって、何度も死んでは生き返るのが彼の仕事だ。移住船のリーダーは、宗教右派と結託している政治家ケネス・マーシャル。何度も死ぬうちに17号となったミッキーだが、ある日手違いから、まだ死んでいないのに18号が複製されてしまう。「マルティプル」(重複存在)は重罪で、見つかればふたりとも死刑だ。はたしてミッキーの運命は——?
『ミッキー17』はポン・ジュノ監督作品中、おそらく最も軽やかな気持ちで観ることができる映画だろう。とはいえもちろん今回も、彼のほぼ全作を貫く、深刻な階級格差の問題は取り上げられている。ひたすら底辺仕事を押しつけられ、人間扱いもされない主人公ミッキーには同情せずにいられないし、自分自身の生活のさまざまな面を彼に投影する観客も多いだろう。また、ポン・ジュノのブラックユーモアは今回も健在だ。ガタンガタンと行きつ戻りつ、複製機から排出されるミッキーの動きには妙な滑稽さとリアリティがあり、すぱっと切断された彼の手首は、科学者たちの笑い声に乗って宇宙空間を飛んでいく。
そんなことをどうして笑い事にできるのかと怒られそうなのに、『ミッキー17』は——ポン・ジュノ作品の例にもれず、複数のジャンルを横断する作品ではあるものの、基本的には——やはりコメディである。残酷な非人間的状況を描いていながらも、そこにはこだわるまいとするかのように、映画は深刻さを回避して突きすすむ。わたしたちは、気弱で心優しいミッキーが苦境から救われることを望み、個性的なキャラクターたちのやり取りに笑わされ、結末に留飲を下げるだろう。ミッキーを支えつづけるナーシャの強さも印象的で(※1)、ポン・ジュノには珍しい正統派のラブストーリーだとも言える。
原作はエドワード・アシュトンの『ミッキー7』(日本語訳はハヤカワ文庫から刊行)。映画化にあたり、ミッキーの複製回数は10回も増えたわけだが、それ以外にも彼の設定は変更されている。原作のミッキーが賭博によって負債を負うのに対し、映画版の彼はマカロン専門店の経営に失敗して借金を抱える。これは『パラサイト 半地下の家族』(2019年)の台湾カステラを明らかに引き継ぐものだろう。さらに原作のミッキーは、かなり知的な歴史愛好者であり、しばしば哲学的な思索をめぐらすのだが、ポン・ジュノは映画化にあたり、彼を原作版よりも「もっと労働者階級的で、ちょっと間抜けで、もう少しかわいらしくて、もっと不運で、いい人すぎるくらいいい人」にした。それは彼を「われわれの日常にとってもっと身近な」存在にしたかったからだという(※2)。
実際、この映画のミッキー17はそのとおりのキャラクターだ。体重を減らしたせいもあるのだろう、いつにもましてかわいらしく、かつ頼りなく見えるロバート・パティンソンが、彼を非常に魅力的に演じている。だがその一方、この変更によって、この映画が持ちえたかもしれない可能性がふたつ失われることとなった。ひとつは「複製される『わたし』はどこまで『わたし』なのか、『わたし』の同一性を保証するものは何か」という、哲学的問いの提起と展開。もうひとつは、ミッキーの苦難と冒険に観客が心情的に巻きこまれ、スリルを感じながら彼の運命に並走する、サスペンス映画、スリラー映画としての魅力だ。
ふたつめの点には少し説明が必要だろう。わたしたちは『ミッキー17』を、ミッキーの苦しみや痛みをわがことのように体験し、ミッキーがピンチに陥ると自分もハラハラするというのではなく、「風変わりな面白いお話を、安全なところから見物する」ような姿勢で楽しんでしまうのだ(※3)。わたしたちの日常に近づけるための脚色が、皮肉にも、わたしたちを没入から遠ざけてしまっているわけだが、なぜそんなことが起こるのか。原因は、ざっと見たところ大きくふたつある。