こんなふうに生きることができたならば 『イル・ポスティーノ』に収められた命のきらめき
映画にはごくたまに、「こんなふうに生きることができたならば」と思わせるものがある。1996年に日本公開されたイタリア映画『イル・ポスティーノ』を観たときに、筆者はそう思わずにいられなかったのだった。
本作は、90年代のミニシアター映画を代表する名作だ。イタリア語映画ながら、米アカデミー賞に作品賞を含む5部門にノミネートを果たした。主演男優賞にノミネートされたマッシモ・トロイージは不治の病をおして本作の制作に臨み、撮影終了の12時間後に息を引き取ったという逸話とともに語り継がれることになったこの作品は、文字通り主演俳優が命がけで作り上げた、魂の一作ともいうべき作品である。
イタリアの小島で生まれ育った青年が、チリの伝説の詩人パプロ・ネルーダと出会い、詩の奥深さを知り、愛に目覚め、人生を豊かにしていく様を、美しい風景の中で描くこの作品の輝きは、公開から30年を経ても色褪せていない。この映画には確かな人間の人生が映っている、1人の俳優の命のきらめきとともに。
言葉を届ける人とつくる人の友情
イタリア・ナポリの沖合いに位置する小島に、チリから亡命してきた詩人パプロ・ネルーダが滞在することになった。貧しい漁師の家に生まれたマリオは、漁師の仕事にも馴染めず失業中の身だったが、世界中からパブロ宛てに届く手紙を届けるための、専任配達人の仕事に就くことになる。
マリオは、詩など読んだことはなかったが、パブロと触れ合ううちにその美しさや豊かさに気づかされてゆき、2人の間には友情が芽生え固い絆で結ばれていく。マリオは愛することを知り、港のバーで働くベアトリーチェと結婚、新しい人生の一歩を踏み出すが、パブロの追放令が解かれ、別れの時がやってくる。
本作は、言葉を運ぶ人(=郵便配達人)が、言葉を作る人(=詩人)と友情を育み、世界の美しさに気が付いてゆく物語だ。はじめは有名人と知り合いになれれば、自慢できるだろう程度のよこしまな気持ちで近づいたマリオは、詩の素晴らしさに目覚めるとパブロへの尊敬の念を高めていく。同時に世界そのものへの関心も高めていき、世界の美しさに目覚める感性を獲得していくのだ。
パブロが教えるのは、暗喩(メタファー)だ。雨が降る様を「空が泣く」表現すれば、自然現象に感情が感じられるようになるのが暗喩の威力だ。そのような感性豊かな詩に触れて、大人になっても人は成長していける様を、マッシモ・トロイージがまるで少年のような無邪気さで演じている。
風光明媚な小島の自然、絶壁から見える青い空と海、白い砂浜、古い家並み、漁師たちのしわがれた顔と手、桃源郷のおとぎ話を見ているのかと錯覚するような美しさに溢れた映像の中、2人の男が言葉の豊かさを通じて友情を育んでいく。それら、自然物の一つひとつが映像による暗喩として、観る人に優しく問いかけてくるような作品だ。
マッシモ・トロイージの命のかがやき
本作の感動的な理由のいくらかは、主演俳優マッシモ・トロイージの悲劇が作用していることは間違いない。撮影終了12時間後に亡くなった彼の逸話と、映画の主人公マリオの結末が重なる面があることは確かだ。主演俳優の死という、映画の外部要因によって本作は、半ば伝説になったような側面があることは否定できない。
元々心臓が弱かったトロイージは、この作品に自分の命をささげる気でいたようで、その彼の生き方を否定することは誰にもできない。だが、彼が命を懸けて作り上げたこのフィルムは、たとえ、そのことを観る人が全く知らなかったとしても、強い感動を呼び起こす強度を秘めていることも確かだと思う。
この映画には確かに命の揺らめきのようなものが写っている。それは激動の時代を生き抜いた人々の生き様であり、自然とともに生きる人々の輝きであり、潔さのようなものであり、現代人の多くが失った何かだ。人々は働いて、酒を飲み、海を眺めて、誰かを愛し、死んでいく。そういう命のあり方そのものに美しい何かがあると、本作は描いているように思える。
そんな命の揺らめきそのものの美しさを体現しているのは、間違いなくマッシモ・トロイージなのだ。それは、彼の命のろうそくが尽きようとしているから、感じられるのか。それはわからないが、確かにフィルムに刻まれた彼の肉体と声によって、そんな命の輝きが表現されていることは間違いない。