『虎に翼』を“朝ドラ”として“私たちの物語”にした尾野真千子の語り 多声音楽のような世界

「なんで私だけ、私だけ……」

 尾野真千子の語りが耳に、心に、こびりついて離れなかった。

 『虎に翼』(NHK総合)第8週「女冥利に尽きる?」の寅子(伊藤沙莉)は妊娠によって法曹界から去ることになる。妊娠を家族以外には隠して働いていたが、穂高(小林薫)に知られ、いまは出産と子育てに力を注ぐべきと諭される。

 穂高は雲野(塚地武雅)にも報告、雲野たちが仕事を引き継ぐことになり、寅子は絶望して法律事務所を辞めた。

 女性初の弁護士として注目されたものの、先輩ふたりは家庭との両立が難しく辞めてしまった。たったひとり残された寅子の筆舌に尽くしがたい思いは、当人の口からではなく、語りが代弁する。「もう私しかいないんだ」「なんで私だけ」。

 『虎に翼』の語りがなぜこんなにも饒舌かつ、存在感があるのか、その理由が「なんで私だけ」で明確になった瞬間だった。寅子ではなく、語りが言うからこそ、寅子の思いをはるかに超え、視聴者の声となって、拡張するのだ。

 朝ドラの正確なシリーズ名は連続テレビ小説。それは新聞小説のテレビドラマ版としてはじまったからである。朝の支度をしながら、ながら見している主婦に音だけで内容がわかるように、語りも懇切丁寧なのが伝統となっている。

 これまでにない新しい朝ドラと言われる『虎に翼』もその伝統は踏襲していて語りが手厚い。状況の説明はもちろん、寅子の気持ちを代弁することもあれば、寅子の言動をツッコむこともある。それにしても、いわゆる語りらしい客観的な冷静なムードではなく、さりとて、物語の登場人物の誰かでもない。不思議な味わいがある。

 主人公当人のモノローグというわけでもなく、尾野真千子という俳優が担当しているため、キャラが立っていることが魅力的と好評でもある一方で、「ちょっと語り過ぎではないか」「これでは視聴者の想像する楽しみを損なうのでは?」という意見もSNSで見られる。

 逆にいえば、語りが正解を教えてくれるので、主人公の言動がわからないことで脱落することもないし、誤解をしないでも済む。もちろん、自由な解釈は大事なのだが、そればかりだと老若男女、様々な視聴環境にいる人たちに訴求しづらいだろう。その点で、誰もにやさしい語りである。

 さらにいうと、その語りの声は、先述したようにいつの間にか私たちの声になっている。『虎に翼』が私たちの物語だとこれまでの朝ドラ以上に強く歓迎される理由は、主人公ともうひとりの声によって多声音楽のような世界をつくりだしているからではないだろうか。

 ロシアの評論家・ミハイル・バフチンが、ドストエフスキーの小説にポリフォニー(多声音楽)のような構造を見出し、それをポリフォニー論という(参考『ドストエフスキーの詩学』)。ポリフォニーとはハーモニーのように音を溶け合わせるのではなく、複数の音がそれぞれ独立して成り立っているものだ。

 バフチンといえば、拙記事(伊藤沙莉が歌う「モンパパ」に込められているものとは? 『虎に翼』が願う“民衆の力”)を参考にあげている河野慎太郎氏の記事(※)は、「モンパパ」をバフチンのカーニバル論(主客転倒)から読み解いている。バフチンのカーニバル論とポリフォニー論は密接な関係にある。

 ドラマにおけるポリフォニーは、登場人物、ひとりひとりの考えがハーモニーのように溶け合うのではなく、それぞれが自立したものである。それが寅子と尾野真千子(語り)に表れている。あるいは、ドラマのなかで、道を、性も年齢も立場も違う、いろいろな人たちが歩いているように、タイトルバックで無数の女性たちが踊っているように(これがひとりひとり違う振りだったらなおよかったが)。

 寅子の表情に、尾野真千子というキャラの立った俳優の語りが重なることで、複数の声となることをはじめとして、寅子とよね(土居志央梨)、寅子と優三(仲野太賀)、寅子と穂高の会話の場面でも、彼らの考えは簡単にまとまらない。

 寅子は志半ばで挫折せざるを得なかった仲間たちのために、女は仕事も結婚も出産もすべてが満点でなければ認められないという重圧をひとりで抱えながら、解決策を見いだせない。そこに穂高は「雨だれ石を穿つ」のことわざのように自らは時代の捨て石となり次の世代に希望を託すことを説く。が、寅子は自分の力でいま、世の中を変える(自分の望みをかなえる)ことができないことを容認できない。

 よねは、寅子は結局男性に甘えていると非難する。優三は、人間はいい面もあれば悪い面もあり、正しい人のままだと疲れてしまうと思いやる。そのうえで、寅子が社会的地位のために結婚したことを指摘する。そして自分も寅子に勝手に自分の人生を委ねていたと告白するのだ。

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