濱口竜介による謎めいた一作『悪は存在しない』を解説 観客を混乱させる結末の狙いとは

 じつは本作のように、観客に考えさせるアプローチをとっている映画づくりは、映画祭に出品されるようなアート作品には珍しくない。観客が映画を観ながら考え、観終わってから何日も頭のなかに残って、日々のなかでさまざまな思考と混じり合っていくようなものこそ、より深い映画体験をもたらすからだ。

 とはいっても、この種の作品は観客を多く呼べないものが多いのも事実だ。大多数の映画の観客は、単純な楽しみを求めて映画館に足を運ぶからである。濱口監督が黒澤明以来の偉業を達成しながら、日本で映画ファンや文化的な物事にアンテナを伸ばしている者以外には、それほど知られていないというのは、それが原因になっているといえるだろう。

 数多くの賞を獲得し、鳴物入りで凱旋した『ドライブ・マイ・カー』も、ストーリーが難解だとの声が多く、一般的なブームと呼べるまでには至らならなかった。しかし、むしろ描かれているものが、分かり難いと感じられるまでに単純化されていないことにこそ、じつは得難い価値があったのである。

 とはいえ、『ドライブ・マイ・カー』が、考え抜いていけば理解が深まってゆくように、本作もまた、かなりの部分まで理解ができる仕組みで出来上がっている。そこでヒントとなるのは、作中に散りばめられたさまざまな要素である。

 劇中では、いくつもの対立構造が登場する。自然と人間。動物と人間。人間と人間。それらは、それぞれが相似のかたちを成し、一方が一方を象徴するような関係を持っている。例えば、普段は人間を襲うことがないという、この土地の鹿が、追いつめられると人間に対して何をするか分からないという構図が、物語上の他の出来事にもいえるということだ。

 小坂竜士が演じる芸能事務所の社員は、観客にとって当初は感じの悪い人物として登場する。しかし、渋谷采郁が演じる後輩社員と会話するなかで、この人物もいろいろと悩みを抱え苦しんでいることが明らかになってくる。人間は、ある行動の裏でいろいろな思考を巡らせ、ときには真逆のことを考えている場合がある。だからこそ、人間は興味深いといえるし、おそろしくもある。これまでも濱口監督は、そういった先入観を破るような展開や表現を用意してきている。

 象徴的なのは、巧が森を歩きながら、一緒にいる娘に、木々の種類を説明していく場面だ。都会の多くの人間は、森に立ち入ったとしても、「木がいっぱいある」としか思えないかもしれないが、木々にもいろいろな種類があることや、危険な植物、食べられる植物、動物のフンや死骸から得られる情報など、実際に森には知れば知るほどさまざまな要素が存在している。解像度を高めていけば、その光景は全く違ったものとして映り、判断されることになるのである。

 自然にそのような複雑性があるように、動物や人間、社会にも複雑な事情や知られざる一面がある。それを、一見した印象から単純化し、侮ってしまえば、おそろしいことになりかねない。本作が描いたのは、そのような短絡的な見方に対する一種の批判であると考えられるのだ。

 それはまた、ストーリーを飛び越えて、前述したような作品論にも合流していくことだろう。映画もまた現実同様、複雑なものを複雑なまま描き得るし、それを起点に複雑な思考を促すことができるのである。

 だが、本作『悪は存在しない』が、圧倒的な個性を放った唯一無二の作品かといえば、そうとばかりも言い切れない。例えばルーマニアを舞台とした、クリスティアン・ムンジウ監督の『ヨーロッパ新世紀』(2022年)は、非常に近いテーマと題材を持った作品だといえるし、中上健次脚本、柳町光男監督の『火まつり』(1985年)もまた、本作の内容を解き明かす上で理解の助けになる作品である。

 “自覚的”な映画づくりをしてもなお、そこには類似の作品が存在する。これは現代の映画作家にとって、ある意味では不幸なことだ。しかし、だからこそクリエイターは、自分の位置や表現をより自覚的に知ることができるともいえる。そして、その姿勢を持つことこそが、すでに多くの映画を審査してきた歴史のある映画祭に挑戦するにあたって、必要なものだといえるのである。この意識が作品に反映しているからこそ、濱口監督作品は映画祭の審査員にとって評価に値するものとして映るのだと考えられる。

 無論、アート映画の作り手は、映画祭のためだけに映画を作っているわけではないだろう。しかし、評価する者がなくては、大きな製作費を必要とする映画を届けることがなかなかできないのも確かなことだ。深みを持った作品を評価する映画祭という存在がなければ、本作のような作品もまた作り続けられることはないはずなのだ。

 『悪は存在しない』のように、社会的な背景と複雑性と奥行きを持った作品は、映画祭に足を運べば、数多く鑑賞することができる。また、ミニシアターのラインナップにも複数存在するはずである。このような作品を楽しむ観客が増えていけば、映画の多様な魅力が周知され、映画界はより豊かな表現の場として育っていくはずである。

■公開情報
『悪は存在しない』
Bunkamura ル・シネマ 渋谷宮下、シモキタ - エキマエ - シネマ『K2』ほか全国順次公開中
出演:大美賀均、西川玲、小坂竜士、渋谷采郁、菊池葉月、三浦博之、鳥井雄人、山村崇子、長尾卓磨、宮田佳典、田村泰二郎
監督・脚本:濱口竜介
音楽:石橋英子
企画:石橋英子、濱口竜介
製作:NEOPA / fictive
配給:Incline
配給協力:コピアポア・フィルム
2023年/106分/日本/カラー/1.66:1/5.1ch
©2023 NEOPA / Fictive
公式サイト:https://aku.incline.life/
公式X(旧Twitter):https://twitter.com/Incline_LLP

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