マーティン・スコセッシの圧倒的な一作 『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』徹底考察
なぜ、ウィリアムはアーネストをけしかけたのか。それは、“家族になれば白人であっても石油の受益権の恩恵に浴すことができる”ということを知っていたからだ。つまり彼は、自分の手駒となったアーネストを利用して、オセージ族の受益権を奪おうとしていたのである。しかし、彼にとって一つの問題がある。アーネストに権利を奪わせるためには、モリーが先にこの世を去らねばならないのだ。
オセージ族から最大限の利益を搾り取ろうと、汚い計画を同時進行で進めていくウィリアムという人物は、表向きは先住民に理解を示し、敬意を持って接しているように見える。それだけでなく、彼は先住民の言葉や文化を勉強し、オセージ族からの信頼を勝ち得ているのである。人々の信頼を手に入れるためには、奪った財産の一部から慈善事業に寄付することすら厭わない。ウィリアムは権利を掠め取るために、そこまでやることも厭わない人物なのだ。
金を手に入れるために、オセージの者たちを殺すタイミングまでマネージメントする悪辣さと、人前で常に柔和な態度を崩さず、「君のためだ」と、親身になったふりをしながら、周囲の人間を、自分にとって有利にコントロールしようとする狡猾さ。そういう剛柔備わった悪こそ、最も唾棄すべき存在なのではないか。ロバート・デ・ニーロは、本作でついに、「“純粋な悪”をも超えた悪」といえる役に出会うことになったのだ。
対してディカプリオ演じるアーネストは、狡猾さなど全く持ち合わせていない男だ。冒頭、彼が駅に到着すると、男たちがケンカしているところに居合わせる。そこでアーネストは、なんとケンカの理由も、双方の言い分も何も分からない状態で、ケンカの熱気に巻き込まれて殴り合いに参加しようとするのである。そればかりでなく、彼は運転手の仕事中であるにもかかわらず、路上で賭けレースがおこなわれているのを見て、思わず奇声をあげて騒ぎ出してしまう。
これらの描写は、アーネストという人物が、自分の意志が希薄な性格だということを説明しているのではないか。ものごとの善悪を自分の頭で判断することなく、その場の空気や“ノリ”で動いてしまう、“烏合の衆”の一人ということだ。そして、“自分がない”からこそ、自分より頭がよく権力を持っているウィリアムの誘導にただただ従ってしまうのである。
そして先住民のモリーを妻とし、アーネストなりに愛しながら、同時に彼女を死に向かわせようともする。そんなことがあり得るのかと思ってしまうが、アーネストが空っぽな人物であることで、そのような奇妙な状況が生まれてしまったといえるのではないか。なぜ、そのような大人としての責任感を持つことができない、取るに足らないような人物が、物語の中心人物として描かれているのかが、本作の興味深い点なのだ。
アーネストは、デ・ニーロが演じた人物のような能動的な悪ではない。正しく導いてくれる人物がいてくれたのなら、善良に生きる道もあったのではないかと思えるところもある。しかし、だからこそ彼は罪深いともいえるのではないか。
少なくとも劇中のウィリアムは、自分が悪人であることを意識しているはずで、だからこそ全ての局面で利益が最大になるような選択を合理的に選んでいることが分かる。一方、アーネストは支離滅裂だ。自分のおこなっている悪事を悪事であると、はっきりと認識できていないのではないのか。彼がさまざまな罪を認めながらも、最後の最後でモリーに対する罪の責任を負うことを拒否する受け答えをしてしまうのは、その表れであると考えることができる。
かつて、ナチスドイツの高官として、ユダヤ人を大量虐殺する収容所へ送り込んだアドルフ・アイヒマンは、戦後の裁判のなかで、「上から命令されたことを果たしただけだった」と繰り返し述べている。彼がただ命令に従っていたというのは、おそらく事実なのだろう。彼もまた、命令する者が善人であったとしたら、善行を施していたかもしれないのである。だからこそ、自分の倫理観をシャットアウトできる、愚鈍さや空疎さというものは恐ろしい。こういった受動的な悪が責任を負おうとしない態度は、能動的な悪よりもむしろ卑怯とすらいえる部分があると思えるのである。
ユダヤ人哲学者のハンナ・アーレントは、ナチスの戦争犯罪者として裁かれるアイヒマンを指して、「凡庸な悪」と呼んだ。この指摘が重要なのは、我々を含めた人間の多くもまた、根っからの悪人でも善人でもない、凡庸な存在であるからだ。その意味においてアーネストが、ある場面では善き夫であり善き父親であるという描写に、逆説的に戦慄せざるを得ないのだ。我々も当時のアメリカのマジョリティとして、その時その場所にいたとしたら、彼らと同じ罪に手を染めていたのかもしれないと思えるのである。