宮﨑駿の映画は何を伝えようとしてきたのか? 第1回『ナウシカ』から『トトロ』まで
『風の谷のナウシカ』が教える、戦後の日本と世界
80年代の作品は、「活劇」の要素が強い。特に『ルパン三世 カリオストロの城』(以下、カリオストロの城』)、『天空の城ラピュタ』(以下、『ラピュタ』)はその快楽を存分に味わえる作品である。その中で、『ナウシカ』と『トトロ』は浮いているように思える。『トトロ』は日本を舞台にした、物語的には地味な作品だし、『ナウシカ』は、作品の成立の経緯が他と違い、アニメーターをしていた若い頃から温めていた作品というよりも、『アニメージュ』にマンガの連載を依頼され、そこから考えていったという経緯から来る「現在に近い問題系」が扱われているからだ。
本論では、前半では『ナウシカ』を中心に、後半では『トトロ』に触れながら、アニメーション映画監督としての出発点たる80年代における宮﨑駿作品のメッセージを読解していく。
『ナウシカ』が描いた内容が、現実の世界とリンクしていることに、宮﨑は意識的だ。「自分たちがいる世界と自分たちが作ってるもののあいだに橋がかかってないっていう感じがしてたんですよ。自分たちが本当は直面してる問題を棚上げして区切っておいて」(『風の帰る場所』p230-231)。これらの発言から、『ナウシカ』は、未来SFやファンタジーの意匠を使いながら、現代社会に対する寓話として描かれていると言える。
では、どのような内容か。爛熟した文明社会が崩壊して「腐海」が広がり虫の天国になっているという舞台設定などに、資本主義や文明、科学に対する批判意識と環境問題への意識を読み取るのは容易いだろう。巨神兵が核兵器、「火の七日間」が全面核戦争である、というのも、これまで何度も指摘されてきた定説である。
冷戦という、核兵器を向けあいながら睨み合う戦争の時代における国際政治と、日本の地政学上の位置の寓話でもあるだろう。自然と調和した素朴な暮らしをしていた「風の谷」が、科学技術に優れた、ヨーロッパを思わせるトルメキアという国に蹂躙され属国にされ、原子力発電所を思わせる「巨神兵」の復活に従事させられているところなど、戦後の「日本」のアメリカ化・科学技術立国化と、アイゼンハワーのatoms for peacesの掛け声を受けた日本の原子力政策の寓話であるようにも見える。ペジテ市の蟲を使った大量破壊や、戦争のために王蟲の子供を残虐に殺すところなど、世界の二大勢力が戦争のために残虐で非人間的になっていく、冷戦時代の国際政治を批判するためのの寓話だと見て良いだろう。
その中で翻弄される「風の谷」=日本を象徴するキャラクターが、主人公のナウシカであるが、この西洋風のルックスを持ちつつ、日本的なアニミズムを持つキャラクターのハイブリッドさこそ、初期の宮﨑駿映画(日本を描かなくてはいけないと覚悟を決める前)の特徴をよく示している。
「ナウシカ」という名前は、ギリシャ叙事詩『オデュッセイア』に出てくる王女から採られている。宮﨑の言葉で言えば、「俊足で空想的な美しい少女。求婚者や世俗的な幸福よりも、竪琴と歌を愛し、自然とたわむれることを喜ぶすぐれた感受性の持主」(宮﨑駿『出発点』p430)である。それと、平安時代後期の『堤中納言物語』にある「虫愛ずる姫君」の両者を合成してナウシカのキャラクターが着想された。「虫愛ずる姫君」は、貴族の姫君なのに、虫に夢中で、眉を剃ったりお歯黒にしたりはしない「変わり者あつかい」(『出発点』p430)な人物である。彼女は、現在であれば社会に居場所があっただろう、と、宮﨑は同情的である(早すぎる思想を持った者の孤独、というニュアンスがある)。そのような、自然と交歓する、ギリシャ叙事詩との日本古典のハイブリッドで作られた人物がナウシカなのだ。
物語が伝えようとしていることは、資本主義や科学文明、そしてその成果である大量破壊兵器を用いた残虐な戦争の虚しさであり、戦争は辞めて、自然や生命への共感を大事にしてほしい、というメッセージであろう。そのメッセージは、作品を実際に観れば、確実に伝わってくるだろう。宮﨑本人の言葉によれば、「『ナウシカ』の戦争のモデルは独ソ戦」(『出発点』p348)であり、「ロシア人だけで二千万人死んだ」(同)戦争の残虐さを表現しようとしたようだ(独ソ戦だけでなく、第二次世界大戦全般や冷戦なども重なっている、というのが筆者の理解だ)。
非常にストレートに、戦争反対と、生命の尊重(特に、王蟲の子供を救おうとするところ)のメッセージが発せられており、それらが不即不離の関係になっている。生命の大事さを忘れているからこそ戦争をし大量破壊兵器を使えるのだろうし、生命を大事にするからこそ戦争の愚かしさや虚しさが痛感される。
そのナウシカの蟲への愛は「アニミズム」だと宮﨑は表現している。
「自然を大事にするのは人間のためじゃなくて、自然は損ねちゃいけないものだからです。自分の中に宗教というよりも、一種のアニミズムがあるんだなと感じるんですね。実はナウシカというのも、アニミズムによって支配されている」(『出発点』p341)
この「自然(破壊)」と「アニミズム」の感覚は、どうも水俣病を参照して得られたようだ。水俣病とは、水俣湾に新日本窒素肥料の工場が有機水銀を排出し、それに汚染された人々が死亡したり重い障害などを抱えた。その数、認定されただけで2000人以上。まさに資本主義と科学が、自然と人間と生命を破壊した事件だった(国も企業も何年間もそれを認めなかった)。宮﨑は「実は『ナウシカ』をつくる大きなきっかけになったといまにして思うこと」は「水俣湾が水銀で汚染されて死の海になった」(『出発点』p342)、その数年後に大量の魚と牡蠣が戻ってきたことにあるという。
水俣病、核兵器、独ソ戦、第二次世界大戦、戦後の冷戦状況……。それらを組み合わせた、まさに現在の自分たちが生きているこの困難な世界の寓話として機能するアニメーションを作ろうとしたのが、『ナウシカ』であり、それらの悲劇を克服する方向の精神性を求めたある種の祈りの作品だと言っていいだろう。そしてその可能性が、日本的なアニミズムに見出されている。それは、本人が言っている通り、民族主義的であり、資本主義や科学を投げ捨てて「自然」に戻れば良いとでも言うかのような、素朴さである。自然と密着していたかつての日本の心を取り戻せば、まるで公害も戦争も解決する、とでも言いたげなのであるが、この問題は後に自己批判されていくようになる。