『進撃の巨人』完結編で踏み荒らされる“残酷な世界” 私たちはエレンに何を伝えられるのか

『進撃の巨人』残酷な世界が踏み荒らされて

※本稿には『進撃の巨人』The Final Season完結編(前編)までのネタバレが含まれます。

 3月3日に放送されたTVアニメ『進撃の巨人』The Final Season完結編(前編)のことが頭から離れない。原作未読の立場として、これまでのシーズンも開いた口が塞がらない怒涛の展開が(特にシーズン3からファイナルシーズンにかけて)続いたが、先日放送された「地鳴らし」は別次元のものである。この惨劇が生まれた原因……エレンの動機を、本作が訴える大切なメッセージと照らし合わせながら考えたい。

 「地鳴らし」自体が起きたのはラストシーズンで、私たちはすでに何千もの超大型巨人がパラディ島の外に向かって歩き出したことを知っている。その渦中でどうにかエレンを止めようと、マーレのマガト元帥やライナーたちと結託したハンジ、リヴァイ、そして調査団の同期たち。その際、すでに超大型巨人の進行速度からしてアニの故郷も「地鳴らし」の影響を受けているだろうと推測されていた。しかしその「推測」と、それを実際に見るのとではやはり重みが違う。ジャンによる回想シーンですでに一瞬登場していた、マーレに住む中東の人々。前シーズンのラストで共に酒を飲み、笑った彼らの子供が、エレンの率いる超大型巨人によって踏み潰される。

 彼らとの友好的な夜が象徴するのは、人類は言葉が通じなくても、ボディランゲージという非言語コミュニケーションで通じ合うことが可能であること、つまり“理解し合えることへの希望”のひとつだった。だからこそ、それをエレンに摘み取られてしまうあのシーンは、単純に子供が殺される以上に悲惨な意味を持つ。「地鳴らし」とは、ある意味で“神”とも言える力を手に入れたエレンが、人類および人類が絶えず繰り返してきた行いに対して絶望した上で行われる、ニヒリズムに基づいた行動である。しかし、例えばそれを客観的にテレビの前で観る私は、エレンになんて声をかけてあげればいいのか、わからない。

エレンとガビを用いて描かれた、憎しみを原動力にすることへの代償

 ファイナルシーズンが始まってから色濃く描かれてきた、壁内人類と壁外人類、エルディア人とマーレ人の物語。それが示すのは、どちらにも言い分があり、どちらにも加害と被害の歴史があることだ。シーズン3まで、私たちはエレンの目線で世界を見つめてきた。ある日突然、壁が巨人に破られて母親を目の前で喰われれば、復讐心に燃える……むしろ、復讐心を糧にしないと生きていく力が湧いてこないことも理解できる。その後、調査兵団に入団しても次々と仲間が彼を守るために目の前で殺されていった。その蓄積された悲しみは、父・グリシャの残した手記を読んだ時、ヒストリアと接触したときに怒りに変わる。島の外に人類が生き延びていて、マーレ人が罰としてエルディア人を巨人化させ、パラディ島に放流していたことがわかれば。同じエルディア人同士で食い、食わされていたこと以上にそれまでの歴史と未来を見たエレンが、マーレ人及び全てを傍観してきた世界の民を“駆逐”する考えに至っても仕方ないと思う。

TVアニメ「進撃の巨人」The Final SeasonノンクレジットOP【神聖かまってちゃん「僕の戦争」】

 一方で興味深いのは、ファイナルシーズンで描かれたマーレ側の物語だ。ここで登場するガビという女の子は、あの日のエレンと同じ立ち位置で突然巨人による蹂躙を体験し、大切な人々を亡くす。そんな彼女がエレンのように怒りに任せ、“駆逐”した敵がサシャだった。サシャの死はあまりにも突然すぎるように思えるが、その後この物語の中で大切な教訓としての存在感を持ち続ける。サシャを殺したガビは、一緒に壁内に来ていたファルコと共に、何の縁かサシャの父親の元で保護された。そこにはサシャが数年前に村から自力で救出した少女・カヤもいて、カヤはガビとファルコが壁外人類であることに気づく。それでも調査兵団に突き出さなかったのは、自分のロールモデルであるサシャなら、そんなことはしないと感じたからだ。

 ガビには「エルディア人は悪魔である」と、“憎しみ”を教えた大人がいて、カヤには不必要な憎しみを抱かないサシャという大人がいた。カヤの母親が巨人に生きながら食われた場所で行われた問答のシークエンス、そして後に描かれたレストランでサシャの父親が言った言葉は、『進撃の巨人』の中で通底して描かれてきた「戦争」がこの世からなくならない理由を理解させられるものであると同時に、それでもどうすれば良いのか考え続けなければならないことを私たちに実感させる。

「サシャを森から外に行かした。で、世界はつながり、兵士になったサシャはよその土地に攻め入り人を撃ち、人に撃たれた。結局、森を出たつもりが世界は命の奪い合いを続ける巨大な森の中やったんや。サシャが殺されたんは……森を彷徨ったからやと思っとる。せめて子供たちはこの森から出してやらんといかん。そうやないとまた同じところをぐるぐる回るだけやろう。だから過去の罪や憎しみを背負うのは、我々大人の責任や」

 襲われたから、襲い返す。殺されたから、殺し返す。そうして、「あっちがやってきたから」「そっちがやってきたから」と子供がするように指をさしあって、その手のひらにこびりついた血から目を背けてきた。それが、人類の歴史であり“世界の残酷さ”なのだ。しかし、そんな中でも希望のように光るサシャの父が残した至言に膝を打ったのは、ガビだけではないはず。それから、ガビがサシャを殺した犯人だと知ったカヤは彼女を殺そうとするも、自分を抑えることを学んだ。ガビは自分が誰から何を奪ったのか理解し、「悪魔の子だから死んで当然」と思っていたカヤを自らの命を賭けて救う。憎しみを抱くことは誰にも止められないし、否定することもできない。しかし、私たちは今一度それを相手にぶつけることの意味と、それに伴う代償を考えるべきなのだ。

 しかし、その小さくも大きな意味を持つやり取りの存在をエレンは知らない。もし、エレンがガビと同じ歳の頃に彼女と同じ体験をしていたら、世界の見え方は変わっていたかもしれない。それでも、その希望的観測をエレンというキャラクターそのものが打ち消すのだ。

エレンは“森”を抜けられるのか

TVアニメ「進撃の巨人」The Final Season完結編(前編)PV第1弾

 これまでの物語は、巧妙にエレンを同情できるキャラクターとして描いてきた。だからこそ、私たち視聴者、そしてミカサとアルミンもあるところまで気づけなかったことがある。彼の生まれ持った“狂気”だ。シーズン3のラストで、生まれて初めて海を見た調査団のみんな。思い思いの反応をしているが、エレンはただ1人、初めて見た世界の美しさではなく遠くの土地にいるであろう人類を指さして、こう言った。

「なあ、向こうにいる敵、全部殺せば、俺たち“自由”になれるのか」

 彼はまだ幼かった頃、ミカサを守るために殺人を犯した。しかし、それがミカサを守るため以上に“他人から自由を奪われるくらいなら、オレはそいつから自由を奪う”というエレン自身の信条に基づく行動だったことに、私たちは徐々に気づかされる。ジークに対して言った「生まれた時からこうだった」と話す彼のセリフは、彼がさまざまな経験を経て狂気を宿していったのではなく、文字通り最初から彼自身の性格が狂気じみていたことを意味するのだ。振り返れば、リヴァイ兵長が真っ先に彼の中に潜む“怪物”を見たことも、全て伏線だったのである。「進撃の巨人」の継承者が自由を求めることとは関係なく、エレンは赤子の時、父・グリシャに「お前は自由だ」と抱かれた時から、“自由”を求めていたのだ。「殺されるくらいなら、殺す」ことが彼の信じるものであり、誰かに殺されたり侮辱されたり、自由や人権を侵害される可能性がある限り、その“誰か”を排除する必要がある。これがマーレに限らず、全ての土地を更地にしてしまおうとした「地鳴らし」に至るエレンの動機だろう。

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