こんなスピルバーグ観たことない! 『フェイブルマンズ』が描く恐るべき映画の真理

スピルバーグの恐るべき『フェイブルマンズ』

 全然関係ない話から始めさせてもらうが、マイク・ホッジスというイギリスの映画監督がいる。彼はTV業界で活躍したあと、マイケル・ケイン主演の犯罪映画『狙撃者』(1971年)で劇場長編デビューを果たした。この作品は大ヒットし、ホッジスも観客の反応を見るべく映画館に足を運んだ。そのとき、客席で大いに熱狂し、笑い、戦慄する人々の姿を後方から見ていて、恐ろしさを感じたという。こんなにも人の心は映画に操られてしまうものなのか、と。

 翌年、ホッジスは『The Frighteners(原題)』というドラマシリーズの一編を監督する。それは「The Manipulators(操作者たち)」というエピソードで、ある政府関係者が1組の夫婦を監視し、悲惨な事故を引き起こすように仕向けるという不条理スリラーだった。もしかしたらホッジスはその後も、観客が「自分の理性を保つ余地」を残した映画を撮り続けたのかもしれない。あの『フラッシュ・ゴードン』(1980年)でさえも。

 さて『フェイブルマンズ』である。デビュー以来、観客が理性を失うほどに心をつかんで離さない作品を撮り続けてきた「映画の巨人」こと、スティーヴン・スピルバーグの半自伝的ドラマだ。主人公が初めて映画に出会った幼年期から、8ミリ映画制作に没頭した少年期、一度は距離を置くものの再び映画に引き寄せられていく思春期、そして業界入り前夜の青年期……4部構成のなかで描かれるのは、スピルバーグの作家性を形成した家族との思い出、両親から受け継いだ個性と精神、そして彼が「映画の魔力」を否応なく思い知る過程である。

 御年76歳のスピルバーグは、もはや「映画のすばらしさ」を無邪気に、声高に謳ったりはしない。半世紀以上も映画と向き合ってきた巨匠が、いまだに抱く畏怖を赤裸々に告白するかのような、繊細なドラマに仕上げている。

 8ミリカメラを手にしたスピルバーグ少年、もといサミー・フェイブルマン少年(ガブリエル・ラベル)は、アリゾナの田舎で仲間たちとの「映画ごっこ」を無邪気に繰り広げながら、そのなかで多くのことを学んでいく。カメラワークや特殊効果、俳優への演出といった実践的な技術だけでなく、何より「フィルムには感情が塗り込められる」ことを体で覚えていく。映画は観客の心をたやすく動かせてしまう……自主映画の上映会でそのことに気付くサミーの歓喜と若干の不安は、マイク・ホッジスが『狙撃者』上映館で感じたのと同種のものだろう。

 だが、時に映画は「操作者」の手から離れ、作り手も制御できない威力を発揮することもある。サミーの母親ミッツィ(ミシェル・ウィリアムズ)は、幼い我が子が「自分がコントロールできるものを欲しがっている」と察して彼にカメラを授けるが、のちにサミーは自分の意図を越えたフィルムの恐ろしさと直面することになる。しかも、母親の姿を通して。

 家族旅行の記録フィルムが偶然に捉えた、母親の意外な表情……その瞬間をサミーが編集機で発見するくだりは、多くの人が指摘するように、ブライアン・デ・パルマ作品を思わせるサディスティックかつマゾヒスティックなスリルに満ちている(何しろ「自分が無意識に撮った映像」が、現実の他者を追いつめる存在になるのだから)。この場面をはじめ、本作にはどんなにパーソナルな題材を描いても面白く見せてしまうスピルバーグの業を感じずにいられない場面が満載だが、ここでは「編集の魔力」も同じくらいの罪悪感を伴って語られる。

 結局、サミーは家庭の平和を守るために「真実をなかったことにする嘘」と「見たくなかった真実」、2本の映画を生み出してしまう。どんなフィルムも編集次第でまったくの別物になり、まったく違う感情を観客に与えてしまいかねない……今ではニュース映像や、SNSで盛んな「切り抜き」などでおなじみの理屈だ。映画で言えば劇場公開版とディレクターズ・カットなどのバージョン違いも例にとれるだろう。しかし、別バージョンを作ったことがほとんどなく、常に唯一無二の決定版を追求するスピルバーグが語っていると思うと、重みが違う。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる