『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』が戸惑うような展開になった理由

『ブラックパンサー』続編なぜ戸惑う内容に?

 公開当時、史上最高の興行収入を記録するヒーロー映画となった『ブラックパンサー』(2018年)は、アフリカ系のキャストや監督が中心となり、差別や偏見を受けてきた人種の苦難だけでなく、文化的な豊かさや誇りを表現した内容で、社会現象を巻き起こした。

 その社会的な意味合いは、通常のヒーロー映画の枠を超えたものだ。これまで白人中心といわれていたアメリカ映画界で、これほどの大きなヒットに結びつけられたという事実は、すでに一つの伝説であり、内容とともに、今後における多様な人種、文化の明るい未来を示すような出来事となった。

 しかし、そんな現象を巻き起こしたヒーローであるブラックパンサーことワカンダ国王ティ・チャラを演じ、続編出演が期待されていたチャドウィック・ボーズマンが、その後病気により亡くなったことは、多くの人々に衝撃と悲しみを与えることとなった。この事態により、計画されていた続編は停滞することとなったが、主演俳優の不在に合わせ脚本を書き直し、新たに撮りあげられたのが、本作『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』なのである。

ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー

 今回続編で描かれたのは、原作コミックを一部参考にした、二つの勢力の戦争だ。多くの観客に大きなカタルシスと感動を与え、希望に溢れた前作と比べると、戸惑うような展開が描かれることになる。ここでは本作が、なぜそんな内容になったのかを、できる限り深く考えていきたい。

 まず触れておきたいのは、チャドウィック・ボーズマンの不在についてだ。主演俳優が何らかの事情で出演できない場合、続編企画をそのまま進めるとなれば、代役を立てるのが通例。しかし、映画のストーリー上のこととは言いながら、融和を求めた感動的なスピーチを劇中でおこない、人種問題の未来への道を示す象徴として認知されていたボーズマンだっただけに、ともに仕事をしたスタッフやキャストのみならず、思い入れが強い観客ほど、代役を立てる措置を受け入れ難く感じるはずである。

 だからこそ、本作の冒頭でティ・チャラがボーズマンと同じように病気で亡くなるという展開に、納得しこそすれ、不自然さを指摘する観客はまずいないのではないか。なぜなら、人の死とはそのように理不尽に、心の準備もないうちに訪れるということを、現実のボーズマン自身が示すこととなってしまったからだ。

 ボーズマンの不在という、とくにこのシリーズ作品にとってあまりにも大きな穴は、簡単に埋められるはずがない。なので本作の物語は現実と同じように大きな穴を残したままとなり、登場人物たちそれぞれがその喪失感を懸命に埋めようとする姿を描くこととなったのだ。たしかに、この方法であれば、観客が登場人物たちに共感しながら鑑賞することができる。このように現実の出来事や感情が部分的にストーリー織り込まれた娯楽作品というのは、かなり珍しいといえよう。

ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー

 そうなると、作品をどうやって魅力的にしていくのかという点が問題となってくる。だが幸い、第1作では、ラモンダ(アンジェラ・バセット)、シュリ(レティーシャ・ライト)、ナキア(ルピタ・ニョンゴ)、オコエ(ダナイ・グリラ)など、それぞれが主演にもなれるような強い女性キャラクターが、すでに登場していた。エムバク(ウィンストン・デューク)やエヴェレット・ロス(マーティン・フリーマン)ら男性陣も、前作から継続して活躍する。

 ヒーロー「ブラックパンサー」を継ぐ者も既存の登場人物のなかから選ばれるが、その人物のみにとどまらず、“オール・ワカンダ”で、この難局と喪失を乗り切ることが目的となるという点が、現実の映画づくりともクロスオーバーするのである。かつて公民権運動の中心的存在だったアメリカのキング牧師が命を落としたとき、大勢の人々が団結してその意志を受け継ぐよう努めたように、一人ひとりがボーズマンが象徴したものを受け継ぐ姿を見せていくのだ。

 この姿勢を示された上では、もはや前作と本作とを比べたキャストやキャラクター設定の巧拙を指摘すること自体が難しくなってくる。なぜなら、ティ・チャラ/ボーズマンの不在こそが、本作の大前提であり、題材そのものであるからだ。その意味で本作は、フィクションであるとともに、それを超えた精神性を描くものとして提出されていることが分かるのである。

ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー

 前作『ブラックパンサー』で描かれたのは、アフリカ系アメリカ人たちが、差別への抵抗において暴力をどう考えるかの違いについてである。劇中で対決するブラックパンサーとキルモンガーの攻防は、そのまま迫害者への姿勢のぶつかり合いであり、議論そのものを表現している。

 貧困と、人種差別を受けざるを得ない環境で育った、キルモンガーことエリック(マイケル・B・ジョーダン)は、彼のセリフにある通り、白人のやり方を真似た暴力によって革命を起こそうとした。だがその目的は、世界中のアフリカ系の人々全体の地位向上を狙ったものだった。平和的な考えを待ちながら、あくまでワカンダを守ることを責務としていたティ・チャラは、エリックの信念を否定しつつも、共感できる部分を一部受け入れ、平和主義を貫きながら積極的に世界に貢献する道を選んだのだ。

 だが現実の世界では、そのような精神を踏みにじるような出来事が起こってしまう。それが、アメリカで白人警官が黒人男性の首を圧迫し続けて殺害した2020年の「ジョージ・フロイド事件」だ。『ブラックパンサー』は、人種間の融和の未来を示し、社会現象を起こしたが、アメリカの社会自体は依然として古いままだ。そこで再燃したのが、前作のブラックパンサーとキルモンガーに象徴される暴力の問題である。

 白人が黒人に変わらず暴力を振るい続けている社会で、それでも暴力を振るってはならないのか……アフリカ系アメリカ人にのしかかる理不尽な環境は、いつでもこの議論の渦に人々を引き戻してしまうのだ。

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