実写版『耳をすませば』のテーマをスタジオジブリによるアニメーション映画から紐解く

 実写映画『耳をすませば』が公開された。同タイトルのスタジオジブリによるアニメーション映画は国民的な人気を誇り、メインキャラクターの雫と聖司くんも多くの人に見守られる存在。しかし、本作はあのアニメ映画の続編ではなく、あくまでアニメ映画の原作でもある、少女コミック誌『リボン』で連載されていた柊あおいの漫画作品『耳をすませば』から派生したオリジナル映画と謳われているのだ。

 中学3年生の月島雫(安原琉那)と天沢聖司(中川翼)。本を通して出会った彼らは次第に想いをつのらせ、あの朝方の丘で告白をする。そしてお互いの夢へ進みつつも10年後に再会を誓った。アニメ映画でもお馴染みのこの展開の10年後を、実写映画『耳をすませば』は完全オリジナル脚本で描く。予告編の時点で中学時代も描かれることはわかっていたが、回想シーン、または物語の前半にダイジェストとして流すかと思いきや、映画全体が10年後の物語と中学時代を交互に映していくような形で進行する。その演出は雫と聖司の過去と現在を照らし合わせる上で効果的ではあった。

 ただ、本作はかなり難しい映画である。何が難しいかというと、その何重にもなってしまっている構造だ。そもそも私たちは先述の通り、本作があのアニメ映画とは関係のない作品であることを理解して映画に臨まなければならない。とはいえ、劇中常にアニメ版と比較してしまうのは、映画の中で意図的にアニメ版からのショットやセリフ、セリフの読み方が登場してくるからだ。例えば、雫が猫のムタを追って地球屋に初めて訪れるシーン。実写映画では、バロンを見つけた雫が「あなたは、さっきのネコ君?」と話しかけるのだが、このセリフは原作漫画にはなくてジブリ版独自のもの。そして雫が聖司を屋上に引っ張っていき、話をするシーンで昇降口から盗み聞きしていたクラスメイトがなだれこむ図や、雫と夕子が校庭のベンチで話している時に杉浦に話しかけられるシーンが、原作では教室内で起きていたのに、実写映画はやはりアニメ版に寄り添って外で起きていることなど。別物と言われつつも、やはり制作側がジブリを意識し、ベースに忍ばせていることは否めないし、私たちが比較することをやめられない理由もそこに集約されている。

 しかし、飛行船や雫が何かを感じたときに水滴が水面に落ちる演出は原作漫画を意識している。この水滴の演出に関してはむしろ、原作そのまま過ぎでもある。元々漫画だからこそ雫の琴線に触れたことがわかる瞬間を“雫”で比喩的に表現していたが、実写でストレートに「水面に素敵が落ちる映像」をインサートしてしまったことで、その“表現”の深みや意図が削ぎ落とされてしまった。これに関してはジブリのアニメ映画が、その描写を逆に削ぎ落とす代わりに、それが意味していた雫の感情の機微を他の映像や演出で表した。

 雫のキャラクター像も少し捉え難い本作。実写映画はジブリ版と同様、中学3年生から25歳になった雫を描いているが、キャスティングや若々しくて元気な演技の方向性も原作漫画の中学1年生に寄っている。中学生時代の雫役にオーディションで選ばれた安原琉那は、朝ドラ『スカーレット』(NHK総合)や『その女、ジルバ』(東海テレビ・フジテレビ系)にも出演していて、彼女の演技自体はとても瑞々しくてよかった。しかし、ジブリ版の雫が割と落ち着いていたキャラだったからこそ、やはり違和感を持ってしまう。その中でも、住友沙来が演じた中学時代の夕子は、まさに一連の登場シーンの動きから声の出し方まで、ジブリ版そのもので圧巻だった。

 このようにアニメと実写の相違を述べたとしても、本作はあくまで原作を共有するだけの別作品。エンドクレジットには「協力」の名目でスタジオジブリが登場するも、原作にはいない。だから切り離して観るべきなのは十分承知なのだが……そこで冒頭のジレンマに堂々巡りしてしまう。中学パートを振り返るとどうしてもジブリ版との比較が映画そのものに没入することを邪魔してしまうし、観客を混乱させてしまう作りになっていた。だから、本作は捉え難い作品なのだ。しかし、この映画が描きたかったのはそれから10年後の物語だったはずであり、未来の雫が抱える闇は本作において非常に興味深いテーマだったように思える。

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