台湾映画『呪詛』が生み出した恐怖とは? “ルール違反”といえるホラー映画の“タブー破り”

台湾ホラー『呪詛』が生み出した恐怖とは?

 さらには、不気味なことばかり言い出すようになったルオナンの娘が、何もいないはずの天井を指して「天井に悪者がいる、追い出して」と言うので、ルオナンがその話に付き合って「悪者、出ていきなさい!」と呼びかけると、さらに娘が「手を繋がないと出て行かないよ」と言い出すので、何もいないはずの空間に手を伸ばさざるを得なくなる場面も、何やら非常に気持ちが悪い。このようなシチュエーションの設定や言葉の選択によって、本作は観客の生理的な嫌悪を巧妙につついてくるのである。

 ただ、それがホラーの常道とはいえ、ここまで観客の不快感を刺激し続けてしまうと、それがサービスなのか嫌がらせなのか、だんだん分からなくなってくるところもある。それを最もよく表しているのが、本作のラストで明かされる“真実”の部分だろう。

 不気味な物語とともに表現されるのが、ルオナンと娘との人間ドラマである。母と子の本音が絡んだリアリティある結びつきは、それが通り一遍のものでないからこそ、観客により強い感情移入をうながしているといえよう。しかし本作は、その善意を利用して、娘の呪いを払うという儀式に観客自身も参加させようと迫ってくるのである。

呪詛

 ここでさらに思い出すのが、インターネット掲示板の書き込みが広めた都市伝説である。日本には、「ひとりかくれんぼ」や「エレベーターで異世界に行く方法」など、その話を知った者が参加できる、儀式めいた内容のものがある。これが怖いのは、ここで語られる物語には、プロの作る商業作品と観客という関係性が担保できていないというところにある。そこでは、書き手が悪意を持って読み手に不利益を与えようとしている可能性すらあるのだ。

 “見たら呪われる写真”と称する画像を見せておいて、「助かるためには、このような儀式をすることが必要」と指示してくるものもあるが、じつはその儀式自体が呪いをかけるものだったと、後から知らされる書き込みも存在する。

 その意味において、本作のラストで明らかになる“核心”部分は、どちらかといえばネットの怪しい書き込みを読んでいる感覚に近く、娯楽作と観客の間にある、一種の信頼感を破ってしまっているところがあるといえる。かつて楳図かずおのホラー漫画に、このような“参加型”の試みがあったように、そんな趣向すらフィクションとして楽しめればよいのだが、それでも本作は、洗脳の入り口となるような趣向を用意していることで、観客によっては精神的なダメージを被る場合があるかもしれない。

 つまり本作は、見方によっては娯楽作品としてのタブーを一部犯しているのである。だから、これまで述べてきた要素に不安を覚える観客であれば、鑑賞を避けた方が賢明だろうし、そういうヒリヒリした緊張感をこそ体験したいと思っている観客には、本作を薦めることができるのだ。

 水を差すようだが、本作で呪いの源泉ともなっている、恐ろしい神“大黒仏母”は、大黒天や鬼子母神などの既存の信仰対象を、本作のクリエイターが混ぜ合わせた、架空の存在に過ぎない。なので、仮に世の中のどこかに“祟り”や“呪い”が実在しているとしても、本作の試みにその効力はないだろう。ただ、一方で本作にはモデルとなった実際の事件があるという噂もあり、その点はやはり気持ちが悪く、同時にいささか不謹慎な印象もある。

 韓国の心霊スポットと怪異を主観映像を駆使しながら撮った『コンジアム』(2018年)や、スウェーデンの夏至祭を舞台に、同じく怪しい土着信仰の恐怖を描いた『ミッドサマー』(2019年)、そして、本作同様に土着信仰と主観映像の組み合わせで描かれる『女神の継承』(7月29日公開)など、近年のホラー作品は、怖さのレベルが増してきていると感じられる。

 どうすれば観客をさらなる恐怖のどん底に叩き込めるか、作り手側はさらなる熾烈なチキンレースに突入しているといえよう。本作のタブー破りは、そのレースのなかでついつい手を出してしまった、ある種のルール違反といえるかもしれない。だが、いずれにせよ、この一種の暴挙が認められてヒットしてしまったのは事実。そして、今後ホラー映画でやっていい領域を、本作が良くも悪くも拡大させてしまったことは確かなのだろう。

■配信情報
『呪詛』
Netflixにて配信中

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