『バスカヴィル家の犬』に感じた映画化の難しさ 失われたドラマ版の明確なカラー
この2年ほどの間に、あれやこれやと想像を上回るペースで量産されているTVドラマの劇場版。そのなかでも興行的に、かつ(映画としての)批評的にも旨味を持ち合わせているのは、間違いなくこの夏から秋にかけて2本続けて公開される西谷弘監督作品であろう。『ガリレオ』シリーズ2作に『任侠ヘルパー』『昼顔』(いずれもフジテレビ系)と、いずれも西谷自身がチーフ演出を務めたドラマの劇場版を手掛け、それぞれの作品に合った語り口で“劇場版化することの意味”を明確に画面上に示してきた。その点において、他の劇場版とは風格が違うものとなっていると期待せずにはいられまい。
その2本のうちの1本目が、2019年の10月期にフジテレビ「月9」で放送された『シャーロック』の劇場版となる『バスカヴィル家の犬 シャーロック劇場版』である。このドラマのルールは至ってシンプル。アーサー・コナン・ドイルの言わずと知れた『シャーロック・ホームズ』シリーズのなかでかすかに触れられただけの、いわゆる“語られざる事件”を現代の日本を舞台にして描く。そしてその事件を、ディーン・フジオカ演じる犯罪捜査コンサルタントという怪しい肩書きの誉獅子雄と、岩田剛典演じる精神科医の若宮潤一が、いわばホームズとワトソンの関係として解き明かしていくというものだ。
そもそも1話完結の構成で描かれる、ジャンル性が強く主人公のキャラクターが立っている連続ドラマというのは劇場版化に最も相応しい。ドラマ版では原作のモリアーティにあたる守谷壬三(大西信満)なる人物の登場がクライマックスに選ばれ、いくつもの謎を置き去りにしたまま、かなり間口の広い終わり方が選ばれたことも、いずれ続編が作られることを暗に仄めかしていたといえよう。ところがいざ劇場版化してみれば、選ばれる題材は“語られざる事件”ではなく正典であり、かつ、とりわけ傑作と名高い長編の『バスカヴィル家の犬』ときた。
原案では、バスカヴィル家の当主が謎の死を遂げ、その死体の傍にはその家に伝わる魔犬の言い伝えを彷彿とさせる巨大な獣の足跡が。当主の主治医から依頼を受け、ホームズとワトソンはその捜査にあたるのである。推理ものという本来であれば映画よりも文学に適したジャンルでありながらも、“魔犬”という限りなく視覚的インパクトがある要素が含まれることもあってか、サイレント映画の時代から(IMDbを参照してみると1914年が最初のようだ)幾度となく映像化されているわけだが、劇場用映画としてはざっと40年以上ぶり。日本での映像化はこれが初めてとなる。
さて、バスカヴィルという苗字を“蓮壁”に、ヘンリーは“千里(村上虹郎)”となり、ステープルトンは“捨井遥人(小泉孝太郎)”、バリモアは“馬場杜夫(椎名桔平)”と、程よく原案のニュアンスを残した固有名詞を与えるあたりはこのドラマの十八番。それはストーリー上でも同様で、ある程度は原案の流れや要素を織り交ぜながら、基本的には異なる方向へと持っていく。もっともそれは、いかなる調理方法を用いてもシャーロック・ホームズ“らしさ”を損なわない原案小説の強さが大きくある。とりわけ本作の特殊なところは、 “らしさ”の根幹であるミステリーの軌道から早々に離脱することである。
娘が誘拐され、身代金も受け取ってもらえずに娘が返されたという不可解な事件の相談を蓮壁家の当主から受ける若宮。その直後にリモート画面の向こうで突然の死を遂げる当主。島に渡った獅子雄と若宮は誘拐の謎を調査しつつも、当主の死や屋敷に送られてきた脅迫文、長男の死などの新たな謎に次々と行き当たり、事件というよりはこの蓮壁家を取り巻く不穏な空気に呑まれていくのである。ドラマ版で見られた推理を働かせる獅子雄のバイオリン演奏もなく、突如として真犯人が自らやってくるわけだが、そこにミステリー的なカタルシスはない。真犯人は、画面に登場した瞬間から真犯人であるという異例の方法が取られるからだ。