追悼・青山真治監督 偉大な同時代作家との出会いと別れ

 まだ57歳だというのに青山真治がこの世を去ってしまった。畏友の追悼文を書かねばならぬこの運命を、ただ呆然として呪うことしかできない。大きな悲しみゆえ、公私混同の手前勝手な乱文となってしまうが、どうか目をつぶっていただきたく。

青山真治監督 2001年6月、渋谷にて筆者写す

 「boidマガジン」に月1回連載されている青山の日記には、がん闘病の様子が克明に書かれている。私たち読者にとって青山と病との闘いはかなり以前からおなじみのテーマであり、初期の連載分をまとめた『宝ヶ池の沈まぬ亀 ある映画作家の日記2016-2020』が2月にboidから上梓されたばかりだが、青山版『断腸亭日乗』とも言うべきこの書の冒頭にしてすでに、著者は品川駅で低血糖の発作に襲われ、売店で買ったアーモンドチョコレートの包装紙を「ホームに突っ立ったまま震える指で剥いて唇に全部押し込むと、長年連れ添ったギブソン125を抱えて座席に転げ込み名古屋まで意識を失った」と書いている。こうした文面に馴致していた私たちは、連載最新回(※)の深刻な内容を見誤った。夏ごろに撮影予定の次回作に向けてロケハン打ち合わせを精力的にこなしつつ、最近も次のような楽天的な言葉が彼の手から紡ぎ出されてもいたのだから。

我々は今後も生きて生きて生きて、次の時代をたしかめて、そしてすべきことをするのだとしか考えていない。つい休みたくなるが、休みながら前進する。

 この力強い言葉を目にした私が思い出すのは、青山の長編第3作『WiLd LIFe』(1997年)において、主演の豊原功補が焼却ゴミの山を見下ろしてつぶやいた独白である。「新旧交代。時代は変わる。前略、お元気ですか? 私はいたって元気です。」――そう、青山真治は時代の変わり目に登場した新旧交代の象徴だ。時代をそれまでリードしていた伊丹十三、相米慎二が相次いで命を落とすなか、青山真治は寵児としての輝きを放つ。

 彼の劇場用長編デビュー作『Helpless』(1996年)について私は、同人をつとめていた映画批評雑誌『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』(1990年創刊、2001年休刊)のなかで次のように書いた。「1970年代後半から90年代にかけて、東京を中心に盛り上がったヌーヴェルヴァーグ再消化の動きは、批評シーンの華やぎに比して、実作面での成果を得られないままだった。青山真治が『Helpless』で実現したものとは、その先鋭化した欲望をひとつひとつのショットに刻みつけることであった」

 私が青山を初めて知ったのは、1990年代前半、東京・四谷三栄町にあった「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集室である。先輩同人の安井豊(現・安井豊作)が見どころのある若者だからと、立教大学を出てまもない助監督を、次号にむけた企画会議に連れてきたのだ。その時のわが第一印象は決して芳しいものではない。青山は雪駄を履いていた。「その現場臭、要らないんだけど」。私は1歳年上らしいこの大柄な男に対して内心、鼻白んだ。この雪駄事件は20年後、ユーロスペースでのトークショーで使わせてもらい、観客にも青山本人にも大いに笑ってもらった。90年代は私自身も監督をめざし、批評活動と並行して短編作品を劇場公開し、続いて長編1本も手がけたのだが、長編のほうは金銭トラブルに巻き込まれ、お蔵入りに終わった。これと相前後して青山も監督となり、第1作『Helpless』を世に問うた。拙作とは比べものにならないほど優れた作品で、「完敗だ」と思った。同じ年に発表した第2作『チンピラ』で青山は大胆にも、シーナ&ザ・ロケッツの鮎川誠とギター共演を果たし、そのツインギターを自作のサウンドトラックとしたのだ。この大胆不敵さ、ほとばしる才能に対し、私はなにひとつ対抗するすべを持たない。そして2000年になるまでには、逆に「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」誌のほうが青山真治を輩出したことを誇りとするようになっていた。

 以来、この1歳だけ年上の映画作家を熱い想いで見つめ続けてきた。好調の時も、低調の時も、ブランクの時も。共同作業者ではないし、飲み友だちですらない。映画作家と批評家の水くさい関係を貫いてきた。彼は私を「オギリン」と親しげに呼んでくれていたが、私のことをそんな可愛いあだ名で呼んでくれるのは、世の中で安井豊作と青山真治だけだ。気性の荒い面が言われることが少なくないが、じつに心優しい男。同時代にこのような、時にはみずからをも仮託する作家と伴走できたことの幸運を、今もって噛みしめる。やがて老境に入った彼が作ってみせる飄逸たる老人映画を待つ機会を永遠に失ったことは、非常に悲しく、寂しい。

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