『映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争 2021』が描く平和への願い 85年版からの見事な脚色

『のび太の宇宙小戦争』が描く平和への願い

 本来であれば昨年の春休みに公開されていたはずの『映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争2021』。春休み映画の風物詩であるこのシリーズが“なかった年”というのは、声優が総入れ替えとなって劇場版の制作がなかった2005年と、新型コロナウイルスの感染拡大で夏休みへと延期された2020年につづいて3回目であり、完成からかなり長い期間寝かされたという点においては、シリーズの中でも最も不遇な作品といえるかもしれない。

 ましてや1年越しの公開を迎えようとしたタイミングで、現実世界ではロシアがウクライナへ侵攻。本作の劇中に登場する“ピリカ星”を支配しようとするギルモア将軍による独裁ぶりがどことなく現実の独裁者とリンクしていたり、ゲストキャラクターであるパピの胸元のペンダントが偶然にもウクライナの国旗と同じカラーになっていることなど、期せずしてさまざまな“深読み”を生み出すことにもつながることになったのである。

 とはいえもちろん『ドラえもん』という作品自体に、反戦を含めた複数のテーマが備えられていることはあえて言うまでもない(それでも大長編においては“冒険”という娯楽的な部分にフォーカスしてあえてテーマを誇張しないという特徴があるわけだが)。

 この『のび太の宇宙小戦争』という物語――ここではまず原作と1985年のオリジナル版についてであるが――におけるそれは、まさに1985年版の主題歌のタイトルにもなっている“少年期”そのものであり、その歌詞に綴られている<僕はどうして大人になるんだろう 僕は何時ごろ大人になるんだろう>というフレーズに集約されていた。

 そもそも大長編におけるゲストキャラクターは、たとえば『のび太の宇宙開拓史』におけるロップルくんや『のび太の日本誕生』のククルなど、のび太たちと同世代の少年少女が中心であり、その多くが生まれ育った時代や星や環境が違っていたとしても、のび太たちと同じように“少年”であり続けるキャラクターであった。ところが『のび太の宇宙小戦争』におけるパピは、年齢こそ同じくらいであると語られながらも、置かれている立場はもはや“少年”ではない。ひとつの星を背負い、そこに暮らす大勢の国民の命と生活を引き受ける大統領なのである。

 かたやのび太たちはミニチュアで特撮映画を撮ったりと、自分の好きなことができ、概ね大きな荷物を背負うことはない小学生である(ちなみに今回の映画版ではスネ夫たちとのび太が競い合わず、一緒に仲良く撮る流れに変わっている。そのためしずかちゃんが“監督”どころか映画作りに加わらないのは少々気になった部分だ)。年齢という共通項以外、何ひとつ噛み合うことのない境遇の両者が互いの“違い”をさも当然のように理解し、それを超えて分かり合える無償の友情が、常に『ドラえもん』の大長編には存在していた。その際たるものがこの物語であり、同時にその交流を通して劇中ではっきりと描かれずとも、のび太は、そしてこの物語に触れた子供たちは自分がいずれ大人になるということに思いを巡らすきっかけとなるのである。

 さて、こうした「違う境遇の者同士の相互理解」は、そのままで現代にも通用する世界標準の重要テーマである。むしろその重要さがいっそう求められる現代だからこそ、もはや自然発生的な描写では許されなくなっているのだろうと、今回の映画版からは哀しくも感じ取れてしまう。パピが「子供でも大統領になれる」ことを最初にのび太たちに話した時、原作や1985年版では「のび太は学級委員にもなれないのに」とドラえもんが言うのに対し、今回の映画版では「のび太くんは大統領の意味さえ知らない」と変更されている。些細な違いにも思えるが、これは大統領である(この時点ではドラえもんたちは知らされていないにしても)パピとの“立場的な違い”の敷居を低くするねらいがあるようにも見える。

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