菅田将暉の源義経から目を離すな! 『鎌倉殿の13人』では“悲劇の天才”にならない?

菅田将暉の源義経から目を離すな!

 三谷幸喜の脚本ならば、きっと何かを仕掛けてくるだろう。そして、菅田将暉ならば、間違いなくやってくれるだろう。そんな、決して少なくなかったであろう期待を受けて、菅田義経が、いよいよ大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(NHK総合)に本格的に登場した!

 のっかけから、獲物の取り合いとなった野武士を、卑怯な手を使って笑顔で射殺すなど、従来の義経像とは大きく異なる「爽やかな狂気」を視聴者に感じさせた菅田義経。否、それは「狂気」というよりも、単に「無邪気」なだけかもしれない。父・義朝の仇である平家一門に対して兵をあげた兄・頼朝(大泉洋)を助けるため、はるか遠く奥州の地から鎌倉目指してやってきた「御曹司」こと義経。その様子は、思いのほか自由奔放だったから。

 富士の山に見惚れたと思えば「まずは、富士の山だ!」と進路を変え、潮の香りに導かれるように「海が見たくなった! 行くぞ!」と郎党を率いて海を目指す、あまりにも無邪気な義経。ちなみに、第8回の放送終了後、Twitterにアップされた「かまコメ」の中で菅田は、今回の義経を演じる上でのポイントとして、「異常性」「人間味」「カリスマ性」「純粋さ」などを挙げていた。あとの3つはともかくとして「異常性」とは、なんとも大胆である。

 けれども、そんな「義経像」が、史実と大きくかけ離れているかというと、案外そうでもないような気がする。もちろん、義経といえば、「判官贔屓(ほうがんびいき)」という言葉があるように(「判官」とは義経を指す。弱者に対して大衆が寄せる同情や哀惜の意)、古くは室町の時代より、平家討伐の最大の功労者でありながら、兄・頼朝から執拗に疎んじられ、失意の中で最期を迎えた「悲劇の天才」として、大衆から愛されてきたキャラクターである。幼名・牛若丸。『義経千本桜』や『勧進帳』などの歌舞伎の演目をはじめ、義経を描いた物語は、これまで数限りない。しかし、その義経像の多くは、後年かなり脚色・美化されたものであるようだ。

 そう、『吾妻鏡』などの歴史書や、『源平盛衰記』などの軍記物語に登場する義経は、必ずしも「悲劇の天才」のひと言で片づけられるような人物ではないのだ。その生い立ちや環境も大いに関係しているのだろう。端的に言うならば、人としてのバランスが、どこかおかしい人物のように思われてならないのだ(それは兄・頼朝も同じなのだが……)。

 「純粋無垢」と言えば聞こえはいいが、それは彼の「政治力」の欠如――もっと言うならば、あまりにも純粋であり、自らを疑うことがないゆえに、他人の気持ちを推しはかることができない人物(それは、いわゆる「サイコパス」の特徴でもあるのだが……)であることを意味しているのかもしれない。わずかな登場シーンでありながら、早くもその片鱗を、「とはいえ、この人と一緒にいたら楽しいかも……」と思わずにはいられない、爽やかなカリスマ性と共に、見事演じてみせた菅田将暉。やはり恐るべしである。とりわけ、菅田が現在主演しているドラマ『ミステリと言う勿れ』(フジテレビ系)を合わせて視聴している人々は、その役柄のあまりのふり幅に、思わず快哉を上げたことだろう。自分もそのひとりだ。

 さて、そんな良くも悪くも、他人を振り回さずにはいられないであろう強烈なキャラクターである義経の登場によって、これから『鎌倉殿の13人』の物語は、どうなっていくのだろうか。源氏の嫡流という正統性はあるものの、どこか飄々としていて掴みどころのない(しかも好色な)頼朝――とはいえ、天性の「政治力」によって周囲の人々を懐柔し、彼らが担ぎ上げる「輿」の上に、自ら乗ってみせるしたたかさを持った人物として、これまで描かれてきた頼朝は、自身の政治力が通用しない相手に対して(なぜなら義経は、政治力が欠如しているがゆえに、それを解さないのだ)、どんな態度を取りながら、その胸中で一体何を思うのだろうか。

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