スピルバーグの映画的な運動への執着が生々しく刻まれた『ウエスト・サイド・ストーリー』

 目の前に広がる瓦礫の山、50年代ニューヨークのマンハッタン、アッパー・ウエスト・サイドには10代の子供たちの心象風景と重なるような荒野が広がっていた。そんなちっぽけな10代の荒野を巡る不毛なテリトリー争いに興じているのが、ポーランド系移民のグループ「ジェッツ」と、プエルトリコ系移民のグループ「シャークス」である。ジェッツを象徴するナンバーは「クラプキ巡査どの」。取調べのために連れてこられた閉塞感のある警察署で、親からの虐待や社会システムにより、貧困と非行行為から抜け出せない心細さが歌われている。一方、シャークスを象徴するナンバーは「アメリカ」。開放的な朝の路上に飛び出していき、アメリカが見せる希望のヴィジョンと有色人種に対する差別ゆえの生きづらさを歌う、その相反する意見のぶつかり合いは、大きなうねりとなってダンスになっていく。「クラプキ巡査どの」と「アメリカ」で示されている2つのコミュニティの視点は、それぞれ共有されることのないまま、分断は続いていく。2つのコミュニティの争いは、武器による抑止効果を鼻で笑うかのように、床に転がった死体と拳銃を映して幕を下ろし、行き場をなくした拳銃はさらなる暴力を生む。

 『ウエスト・サイド・ストーリー』を青春映画の定型に当てはめて考えるなら、「青春時代特有の不安定な移動」と対比させるために、ラストで「線路による正確な移動」を可能にする「駅」を配置させるだろうが、本作は登場人物たちを「駅」に到着させることを許さない。線路は非常階段へと変わり、横移動ではなく縦移動へ、すべてを許すように空へと伸びていく。希望となるのは、冒頭の瓦礫の山と対比させることで、その非常階段が瓦礫の中から蘇っているように見えることだ。悲劇の夜は明け、エンドクレジットでやってきた朝日は光と影で都市の表情を変えていくーーこれは自分たちの正しさを証明するための戦いを止められずに、ちっぽけな10代の荒野を駆け抜けられなかった子供たちの物語である。

 もちろん、この物語に2020年代の人種主義による分断や、ジェントリフィケーションの問題を投影することも可能だろう。しかし、本作は舞台が50年代であること、使用している楽曲や物語展開も含め、あまりに1957年の同名ミュージカル舞台に忠実であろうとしているためーーたとえば、トランスジェンダー男性のキャラクターとして登場するエニーボディズの描写の物足りなさなどーー「古典」の印象が強く残る作品となっている。しいて言うなら、アンセル・エルゴートが演じたジェッツの元リーダーであり、人を半殺しにしたせいで服役していた人物であるトニーが、劇中で犯してしまった罪に対して、法的な手続きを経て裁かれるのではなく、私的な制裁により葬り去れてしまう展開は、ソーシャルメディア上におけるキャンセルカルチャーの現在を反映していると言えるかもしれないがーーそんな現代のイシューの反映として、今回の『ウエスト・サイド・ストーリー』を観るのは居心地が悪く、むしろ、注目したいのは積極的に「古典であろう」としている姿勢についてである。同じ50年代を舞台にしても『ブリッジ・オブ・スパイ』のような現代的な視点に溢れた作品を撮れるスピルバーグが、ここまで現代性を希薄にさせたのは、映画の快楽を純粋に追及するためだろう。本作の「古典らしい」振る舞いは、『ロミオとジュリエット』の時代まで観客の意識を誘導し、物語的強度を「古典」に委託したスピルバーグは、自身の培ってきた撮影と演出のテクニックを思う存分、爆発させている。

 スピルバーグ監督の前作『レディ・プレイヤー1』は映画制作についての寓話であった。想像がすべて現実になる仮想空間の「OASIS(オアシス)」を開発した人物であるハリデーはこう言う。「後ろに進んだっていいじゃないか。全速力で逆走してみたらどうだ?」。舞台は2045年、スピルバーグの出身地でもあるオハイオ州にいる主人公は、その発言をヒントに「OASIS(オアシス)」の所有権をかけた第1の試練の「レースゲーム」で反対方向に走り出す。すると、(まるで映画スタジオに忍び込むように)隠しコースに突入して、そのゲームがいかにして作られているか、その裏側を知ることになる。第2の試練は、主人公のいる時代では65年前の映画となっている1980年の映画『シャイニング』の世界に飛び込むというもの。「ありがとう。わたしのゲームで遊んでくれて」。ラストでハリデーは子供の頃の自分と一緒にどこかに消えていく。スピルバーグの次回作は自身の少年時代をもとに描いた自伝的な内容らしいがーー『レディ・プレイヤー1』におけるハリデーの「OASIS(オアシス)」を「スピルバーグの作ってきた映画」に置き換えると、自分がいなくなったあとの映画業界に対するメッセージが見えてくる。主人公が乗っている車が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のデロリアンであることも象徴的だが、未来へのカギは過去の作品の中にあるのだろう。

 『レディ・プレイヤー1』と同時に制作されていた『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』でも、新聞の印刷機をまるで巨大なフィルムの回転のように捉えることで、印刷所の見学をしている登場人物たちの眼差しに映画作りへの郷愁を託すという荒業で「映画制作」への言及はあったが、なにより『ペンタゴン・ペーパーズ』の素晴らしさは、スピルバーグチームの「映画言語」の扱い方、その見事な手腕である。

 2011年に公開された『戦火の馬』において、スピルバーグは「馬」を主題に置くことで、ジョン・フォード監督に接近し、『アラビアのロレンス』の「アカバ攻略戦」にオマージュを捧げ、『ウエスト・サイド・ストーリー』と同じく舞台作品の映画化でもある本作の、光源の位置が明確で舞台的とも言える雄弁なライティングの中、ノーマンズランドを疾走する馬の姿をカメラに収めた。『戦火の馬』は、動く被写体としてあまりに美しく、だが同時に、撮ることが難しい「馬」の躍動を的確に撮り続けることで、1878年頃に連続写真が発明されてから綿々と続く、映画と馬の幸福な関係を観客に思い出させる。つまり、馬の運動を撮るだけで映画になるということを。

 『ペンタゴン・ペーパーズ』の凄まじさは、「馬」のような魅力的な存在を主題にしなくても、今のスピルバーグなら、それこそ目に見えないモノでも、映画的な運動にできることを証明していることだ。『ペンタゴン・ペーパーズ』は人から人への「情報伝達」を映画的な運動に落とし込んでおり、それは1970年代というデータでの情報交換が不可能な時代設定も大きく関係しているのだが、紙の文書を運び、黒電話で連絡を取り合い、記者は情報集めに奔走し、印刷所で新聞は印刷され、その新聞は街に届けられていく。政府によって目に見えないモノにされていたベトナム戦争の真実を、目に見えるモノにしようとした人々の運動、そこに女性たちの声を可視化するウーマンリブの流れも重なっていくのだが、観客は真実が形になっていく運動を体感することになる。ラストで、史実に基づく映画にありがちな「登場人物たちのその後」を示すテロップの装入もなく、まるでドラマシリーズにおけるクリフハンガーのような展開で、真実を照らす一筋の光で終わるのも実に映画的である。自身の死に向き合う中で映画史を総括する決意を改めて表明した『レディ・プレイヤー1』、そして、どんな題材も映画的運動の中で語れることを証明した『ペンタゴン・ペーパーズ』、この2本の流れを踏まえれば、今回、満を持してミュージカル映画、しかもそれが映画史的に重要な意味を持つ『ウエスト・サイド・ストーリー』だったのは腑に落ちる。

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