宮台真司の『ニトラム』評:無差別殺戮事件の背景を神話的に描き出した稀有な作品
世界中を震撼させた無差別殺戮事件の背景を神話的に描き出した稀有な作品
〜ジャスティン・カーゼル監督『ニトラム/ NITRAM』~
【この種の作品の製作と批評の難しさ】
こうした作品を製作するのは難しい。凶悪な犯人に寄り添う作品は、人々に彼を理解する
ことを求める。だが理解を表明すれば、凶悪犯を擁護しているとして炎上しかねない。加えて、自分も同じような境遇だと感じる人々が似た犯罪に動機づけられる可能性さえある。
同じ理由で、こうした作品を批評するのも難しい。上記の理由に加えて、作品のシニフィエである社会について論じることを要求されることも、批評する側の重荷になる。作品内の物語や映像構成や視座や世界観を論じるだけでは、逃げたと見做されてしまうのである。
それでも、こうした作品は作られる必要があり、批評される必要がある。似たような無差別殺戮が繰り返される背景にある僕らの社会が抱えている問題を、映画を含めた様々な表現を通じて理解しない限り、マクロにせよ、ミクロにせよ、何も改められないからである。
映画批評を雑誌等で公表して23年。最初はテレンス・マリック監督『シン・レッド・ライン』(1999年)だった。売買春を除けば犯罪についての分析を新聞等で公表して25年。酒鬼薔薇事件が最初だった。その意味で、本作の批評を依頼されるのは仕方ないのかもしれない。
本作は1996年のオーストラリアの無差別殺戮事件がベースだ。単純無差別殺戮が専らの日本と違い、欧米は学校への怨念や異人種・異宗教への敵意を背景にしたものなど、条件付無差別殺戮が多い。作品のモデルとなったポートアーサー事件は単純無差別殺戮で珍しい。
人種差別や宗教差別の背景がないことと、犯人が28歳の成人であったことで、この事件は今でも動機の分析が話題になり続けている。だからこそジャスティン・カーゼル監督は、記録された事実に忠実に、こういうことだったのではないかと、映画で仮説を提示した。
【冒頭部分に基本モチーフが出揃った】
主人公の青年ニトラムは今日でいう発達障害だ。彼が好きなものは火と海と恐らく草原。幼少期に火遊びで大火傷した。できもしないのにサーフボードを買って海で溺れかけ、父が買おうとした草原の家に執着した。その家はSeascape(海が見える場所)と名付けられている。
彼は、社会の外の世界に開かれている。だが社会から閉ざされている。人間関係が苦手でnitramと蔑称される。「友達がいない面倒臭い奴」を指す。実在する犯人の本名Martinの逆スペルでもある。人の気を引きたくて場違いなことをやらかす。子供相手の花火然り。場を読まない声かけ然り。全てが痛々しい。
20歳代半ばのニトラムが人気のない広場で思い切りブランコを漕ぐ。美しい。直後、小学校の隅で、ハシャぐ子たちを前に噴出する花火を跨いで見せる。実に活き活きしている。だが教員に制圧され、父親の車に回収される。短いシークエンスだが、モチーフが出揃う。
加えてモチーフが二つ絡む。一つは、母子関係とそれに付随する父子関係。もう一つは、母親と同年齢と思しき女ヘレンとの関係。ニトラムを疎外する「横」の友人関係と、助けにならない「縦」の親子関係に対し、ヘレンは「斜め」の関係を与えて彼を救済しよう。
【「横」と「縦」の不毛の見事な演出】
友人関係の質は一つの場面で示される。見事だ。海で場違いに声掛けした女の、恋人であるサーファー男との、車内での会話。自分はサーファーだと嘘をつくものの「あの女に声をかけろ」とけしかけられて、ビビり、あだ名通りだぜと鼻で笑われ、嘘もバレてしまう。
何十年もnitram扱いされてきた絶望が身に沁みる。だがそれを知る筈の母親は、彼の世界への開かれを理解せず、飽くまで社会的不適格者として遇する。そこには共感のかけらもない。これも一つの場面で示される。母子で医者と面談する場面。これにも唸らされる。
母親「抗鬱剤を飲むと楽になります」。医者「あなたにとって楽? 彼にとって楽?」。母親は数秒つまった後に「誰にとっても楽」と答える。その直前、息子は部屋の隅で聴診器を自分の耳に当てて自らの鼓動を聴いている。母親は終始、息子に目もくれないーー。
だが父親は違う。息子の世界への開かれを理解する。学校の花火騒動から息子を回収後、Seascapeに連れていく。父親は退職者で、貯金と融資でそこを買うのだろう。父と息子が「同じ目をして」二人の将来を語り合う。しかし父親は母親の尻に敷かれ、息子を救済できない。
母親と対照的な、父親の社会での無力を、息子は熟知する。Seascapeの契約を横取りされても引き下がるだけの父親。Seascapeの夢破れて寝込む父親。それを見た息子は「起きあがれ」と叫びながら父親を殴打し続けるだろう。世界に開かれつつ、社会では無力な「似た者同士」。
【家族関係が示す神話的な四象限図式】
僕は舌打ちした。社会に開かれつつ、世界には閉ざされた「強い母」。世界に開かれつつ、社会には閉ざされた「弱い父」。彼らの下に生まれた「弱い父」に瓜二つの息子。そして「強い母」に、母の自覚なきまま追い詰められる。フィールド調査で何度も見てきた。
世界に開かれている構えを「超越」、世界から閉ざされている構えを「内在」と呼ぶ。超越ー内在の軸とは別に、社会に開かれている構えを「社交」、社会から閉ざされている構えを「自閉」と呼ぶと、社交-自閉の軸が得られる。二つの軸は直交し、互いに独立する。
僕が性愛ワークショップ等でかねて推奨してきた実存の形式は、社交×超越=「なりすまし」の象限。他方、母親は、社交×内在=「社会only」の象限。息子は母親と対極的な、自閉×超越=「世界only」の象限。父親は、息子に似るが、社交-自閉軸では中間点だ。
「強い母」と「弱い父」は社交性の強弱による。だから自閉的な息子は「弱い父」より更に弱い。僕が舌打ちしたのは、社交的な「強い母」がもっと超越的なら……、自閉とまでいかずとも非社交的な「弱い父」がもっと社交的なら……、と実例を通じて思い続けてきたからだ。
※この図は一次近似で、正確な図は補遺を見よ。左下が空白である理由が分かろう。